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宝塚・女優・俳優・声優・ナレーター・歌舞伎・能楽・狂言
1 | 松井須磨子 長野市 | Wikipedia |
松井 須磨子(まつい すまこ、1886年(明治19年)3月8日(戸籍上:11月1日) - 1919年(大正8年)1月5日)は、日本の新劇女優。本名、小林正子(こばやしまさこ)。 | ||
2 | 早川雪洲 南房総市 | Wikipedia |
早川 雪洲(はやかわ せっしゅう、本名:早川 金太郎(はやかわ きんたろう)、日本国外での活動名:セッシュー・ハヤカワ(Sessue Hayakawa)[注釈 1]、1886年6月10日 - 1973年11月23日)は、日本の俳優。千葉県出身、1907年に21歳で単身渡米し、1910年代に草創期のハリウッドで映画デビューして一躍トップスターとなった。日本人排斥運動や二度の世界大戦、私生活での混乱などによるキャリアの中断を挟みながらも、晩年の『戦場にかける橋』(1958年)でアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど半世紀以上にわたって活躍した国際的映画俳優である。妻の青木鶴子もまたハリウッド草創期の人気女優。 |
歌手・シンガー
3 | 佐藤貞子 仙北市 | Wikipedia |
佐藤貞子(さとう さだこ、1886年 - 1950年)は、秋田県仙北郡出身の民謡歌手である。 |
演奏家・作詞家・作曲家・ミュージシャン
4 | 久野久 大津市 | Wikipedia |
久野 久(くの ひさ、1886年 - 1925年4月20日)は、滋賀県膳所町(現・大津市)馬場(ばんば)出身の日本初のピアニストである。「久子」と表記されることもある。 | ||
東京芸術大学出身 出身の東京芸術大学の出身者 全国の東京芸術大学の出身者 | ||
5 | 澤田柳吉 | Wikipedia |
澤田 柳吉(さわだ りゅうきち、1886年3月13日 - 1936年9月16日)は、日本のピアニスト。一般聴衆を前に演奏会を開いた最初の日本人ピアニストと言われている。 | ||
東京芸術大学出身 出身の東京芸術大学の出身者 全国の東京芸術大学の出身者 | ||
6 | 山田耕筰 文京区 | Wikipedia |
山田 耕筰(やまだ こうさく、Kósçak Yamada、1886年(明治19年)6月9日 - 1965年(昭和40年)12月29日)は、日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られる。 | ||
東京音楽学校出身 出身の東京音楽学校の出身者 全国の東京音楽学校の出身者 |
舞台・演劇・映画・ドラマ・脚本・プロデューサー・ディレクター
7 | 若山治 足利市 | Wikipedia |
若山 治(わかやま おさむ、1886年2月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である[3][4][5]。本名同じ。雅号を若山 南柯(わかやま なんか)とする。監督作はいっさい現存していないが[6][7]、溝口健二の映画界入りのきっかけとなり、師となったことで名を残す[8]。 | ||
8 | 富本憲吉 安堵町 | Wikipedia |
富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年(明治19年)6月5日 - 1963年(昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家。人間国宝、文化勲章受章者。映画監督・テレビ演出者の富本壮吉は長男にあたる。 |
ダンサー
9 | 石井漠 三種町 | Wikipedia |
石井 漠(いしい ばく、本名:忠純、1886年12月25日 - 1962年1月7日)は、日本の舞踊家、ダンサーである。いずれも作曲家の石井歓、石井眞木は息子、石井五郎は弟である。 |
ジャーナリスト
10 | 佐藤緑葉 | Wikipedia |
佐藤 緑葉(さとう りょくよう、1886年7月1日 - 1960年9月2日)は、日本のジャーナリスト、小説家、翻訳家。本名は佐藤利吉(さとう りきち)。群馬県吾妻郡東村生まれ。 |
格闘技
11 | 鳴門洋利之助 吉野川市 | Wikipedia |
鳴門洋利之助(なるとなだとしのすけ、1886年11月2日-1922年10月4日)は、中川部屋に所属した元力士。本名は藤井利助。徳島県吉野川市鴨島町出身。171cm、100kg。最高位は西前頭5枚目。 | ||
12 | 小常陸由太郎 新宿区 | Wikipedia |
小常陸 由太郎(こひたち よしたろう、1886年2月9日 - 1927年9月15日)は、出羽海部屋に所属した元力士。7代秀ノ山。常陸山谷右エ門の養子。本名は市毛 与四郎(旧姓吉田)。現在の東京都新宿区出身。159cm、124kg。最高位は西関脇。 | ||
13 | 山田川清太郎 高岡市 | Wikipedia |
山田川 清太郎(やまだがわ せいたろう、1886年3月2日-1951年7月24日)は、現在の富山県高岡市出身の大相撲力士。稲川部屋に所属した。最高位は西前頭13枚目。本名は山田清太郎。168cm、92kg。 | ||
14 | 門脇誠一郎 境港市 | Wikipedia |
門脇 誠一郎(かどわき せいいちろう 1886年(明治19年) - 1947年(昭和22年)2月11日)は日本の柔道家、教育者。維新政府の教部大丞門脇重綾は母方の祖父。 | ||
15 | 19代式守伊之助 ひたちなか市 | Wikipedia |
19代式守伊之助(じゅうきゅうだい しきもりいのすけ、1886年12月15日 - 1966年12月14日)は大相撲の立行司である。 | ||
16 | 吉澤一喜 宇城市 | Wikipedia |
吉澤 一喜(よしざわ かずき、1886年(明治19年)4月28日 - 1972年(昭和47年)10月26日)は、日本の武道家。段位は居合道範士九段、剣道範士七段、銃剣道範士八段、柔道八段、整復術八段。「武道日本一合計四十段」と称され、特に伯耆流居合の大家として知られた。身長180cm以上、体重約94kgの偉丈夫であった。 | ||
17 | 鶴渡清治郎 江東区 | Wikipedia |
鶴渡 清治郎(つるわたり せいじろう、1886年6月7日 - 1936年11月1日)は、中立部屋に所属した元力士。6代中立、8代荒磯。本名は田口 清治郎。現在の東京都江東区出身。176cm、113kg。最高位は東前頭筆頭。 | ||
18 | 笹森順造 弘前市 | Wikipedia |
笹森 順造(ささもり じゅんぞう、1886年(明治19年)5月18日 - 1976年(昭和51年)2月13日)は、日本の政治家、教育者、剣道家。位階勲等は正三位勲一等瑞宝章。称号は政治学士、剣道範士。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
19 | 櫻川五良蔵 黒石市 | Wikipedia |
櫻川五良藏(さくらがわごろぞう、1886年5月17日 - 1924年2月25日)は、立田山部屋に所属した元力士。本名は木村慶次郎。現在の青森県黒石市出身。身長167cm、体重105kg。最高位は西前頭2枚目。 |
囲碁・将棋・麻雀
20 | 宮松関三郎 | Wikipedia |
宮松 関三郎(みやまつ せきさぶろう、1886年1月14日 - 1947年9月26日)は、将棋棋士。贈八段。井上義雄門下。愛知県出身。 |
登山家・冒険家・探検家
21 | 辻村伊助 小田原市 | Wikipedia |
辻村 伊助(つじむら いすけ、1886年4月22日 - 1923年9月1日)は、日本の園芸家、登山家。 |
漫画家・イラスト・ゲーム
22 | 岡本一平 函館市 | Wikipedia |
岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年(明治19年)6月11日 - 1948年(昭和23年)10月11日)は、日本の漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。画家・岡本太郎の父親である。 | ||
23 | 小畑友紀 釧路市 | Wikipedia |
小畑 友紀(おばた ゆうき、1月9日 - )は、日本の漫画家。女性。北海道出身[2]。北海道釧路市在住[3]。血液型A型。 |
作家・小説家・エッセイ・文筆・翻訳家・編集者・評論家
24 | 吉田絃二郎 神埼市 | Wikipedia |
吉田 絃二郎(よしだ げんじろう、1886年11月24日 - 1956年4月21日)は、日本の小説家、随筆家。佐賀県神埼郡西郷村(現在の神埼市)に生まれ、幼時に長崎県佐世保市に移る。本名は吉田源次郎。 | ||
25 | 畑耕一 広島市 | Wikipedia |
畑 耕一(はた こういち、1886年5月10日 - 1957年10月6日)は、大正・昭和時代前期日本の小説家、劇作家、作詞家。俳号は蜘盞子、別名義に多蛾谷 素一。 | ||
26 | 平林広人 | Wikipedia |
平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1986年2月21日)は、日本の児童文学翻訳家。デンマーク文学者。アンデルセンの研究で知られる。 | ||
27 | 鈴木悦 豊橋市 | Wikipedia |
鈴木悦(すずき えつ、1886年 - 1933年)は、著作家・記者・労働運動の指導者・大学講師[3]。 | ||
28 | 谷崎潤一郎 中央区 | Wikipedia |
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、日本の小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
29 | 水守亀之助 相生市 | Wikipedia |
水守 亀之助(みずもり かめのすけ、1886年6月22日 - 1958年12月15日)は兵庫県出身の小説家。 |
弁護士
30 | 木村篤太郎 五條市 | Wikipedia |
木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年(明治19年)2月7日 - 1982年(昭和57年)8月8日)は、日本の政治家、検察官、弁護士、剣道家。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 |
建築家・建築学者・技術者
31 | 八田與一 | Wikipedia |
八田 與一(現在の字体では八田 与一、はった よいち、1886年2月21日 – 1942年5月8日)は、日本の水利技術者。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きな貢献をした人物として知られる。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
32 | 吉武東里 | Wikipedia |
吉武 東里(よしたけとうり、1886年2月6日 - 1945年4月30日)は日本の建築家。大熊喜邦とともに国会議事堂の実質的デザイナーとされる。大分県東国東郡国東町(現・国東市)出身。 | ||
京都工芸繊維大学出身 出身の京都工芸繊維大学の出身者 全国の京都工芸繊維大学の出身者 |
経営者・実業家
33 | 倉田主税 福津市 | Wikipedia |
倉田 主税(くらた ちから、1886年3月1日 - 1969年12月25日)は、日本の実業家。株式会社日立製作所元社長・会長、日本科学技術振興財団初代会長、毎日放送元取締役。 | ||
34 | 内藤智秀 庄内町 | Wikipedia |
内藤 智秀(ないとう ちしゅう、1886年(明治19年)7月13日 - 1984年(昭和59年)7月24日)は、日本の西洋史学者、文学博士、(元)國學院大學教授、(元)慶應義塾大学教授、聖心女子大学教授、庄内町名誉町民、パキスタン協会副会長。 | ||
35 | 石坂泰三 熊谷市 | Wikipedia |
石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年(明治19年)6月3日 - 1975年(昭和50年)3月6日)は、日本の財界人、経営者。逓信省を退官、第一生命保険に入社。第一生命保険、東京芝浦電気(現・東芝)社長を経て、第2代経済団体連合会(経団連)会長(在任、1956年(昭和31年)2月21日~1968年(昭和43年)5月24日)。経団連会長を4期、12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は石坂泰三を嚆矢とする。正三位勲一等。 | ||
36 | 石川啄木 釧路市 | Wikipedia |
石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本の歌人、詩人。本名は石川 一(いしかわ はじめ)。 | ||
37 | 上田碩三 | Wikipedia |
上田 碩三(うえだ せきぞう、1886年2月27日 - 1949年1月30日)は日本のジャーナリスト、実業家。元電通社長。 | ||
一橋大学出身 出身の一橋大学の出身者 全国の一橋大学の出身者 | ||
38 | 田中好 南丹市 | Wikipedia |
田中 好(たなか こう、1886年(明治19年)12月30日 - 1956年(昭和31年)5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。土木会議議員、商工省委員、厚生省行政委員、衆院厚生委員長などを務めた。東京合同自動車社長。日本女子鉄道学校長。日本の道路法の基礎を築いた。 | ||
39 | 山内三郎兵衛 湯沢市 | Wikipedia |
山内 三郎兵衛(やまうち さぶろうべえ、1886年(明治19年)6月15日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服太物商)[3][4]、実業家、秋田県多額納税者[4][5]。京山合名会社理事[4][5][6]。秋田銘醸取締役[5]。族籍は秋田県平民[6]。前名・松之助[5]。 | ||
40 | 渡辺剛二 | Wikipedia |
渡辺 剛二(わたなべ こうじ、1886年〈明治14年〉 - 1959年〈昭和34年〉7月11日)は、日本の実業家、医師である。宇部興産初代会長。 | ||
京都大学出身 出身の京都大学の出身者 全国の京都大学の出身者 | ||
41 | 石坂泰三 | Wikipedia |
石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年(明治19年)6月3日 - 1975年(昭和50年)3月6日)は、日本の財界人、経営者。第一生命保険、東京芝浦電気(現・東芝)社長を経て、第2代経済団体連合会(経団連)会長(在任、1956年(昭和31年)2月21日~1968年(昭和43年)5月24日)。経団連会長を4期、12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は、石坂泰三を嚆矢とする。正三位勲一等。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
42 | 河合良成 南砺市 | Wikipedia |
河合 良成(かわい よしなり、明治19年(1886年)5月10日 - 昭和45年(1970年)5月14日)は、日本の農商務官僚、政治家、実業家。富山県高岡市名誉市民。 | ||
43 | 諏訪尚太郎 鶴岡市 | Wikipedia |
諏訪 尚太郎(すわ しょうたろう、1886年(明治19年)8月4日) - 1957年(昭和32年)10月17日は、日本の実業家。 | ||
44 | 徳川義親 八雲町 | Wikipedia |
徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年10月5日 - 1976年9月6日)は、尾張徳川家第19代当主、政治家、植物学者、狩猟家。戦前の侯爵・貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に「最後の殿様」がある。 | ||
45 | 伊藤忠兵衛 (二代) 豊郷町 | Wikipedia |
二代目 伊藤 忠兵衛(にだいめ いとう ちゅうべえ、1886年(明治19年)6月12日 - 1973年(昭和48年)5月29日)は、日本の実業家。伊藤忠財閥の2代目当主である。従三位勲一等瑞宝章。幼名は精一(せいいち)。 | ||
46 | 西川速水 酒田市 | Wikipedia |
西川 速水(にしかわ はやみ、1886年(明治19年) - 1982年(昭和57年)3月2日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍大佐。駆逐隊司令、山形造船(株)常務、(株)山形県舶用木工品製作所・社長、水交会・常務理事、(財)荘内館・監事、功四級金鵄勲章、藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。 | ||
47 | 小日山直登 | Wikipedia |
小日山 直登(こびやま なおと、1886年(明治19年)4月26日 - 1949年(昭和24年)8月28日)は、昭和期日本の実業家、政治家。南満洲鉄道総裁を務め、第二次世界大戦末期の鈴木貫太郎内閣に入閣。ポツダム宣言受諾の意思を示した。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
48 | 石田禮助 松崎町 | Wikipedia |
石田 礼助(いしだ れいすけ、1886年(明治19年)2月20日 - 1978年(昭和53年)7月27日)は、日本の実業家。 | ||
49 | 遠藤柳作 幸手市 | Wikipedia |
遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年3月18日 - 1963年9月18日)は、日本の政治家、官僚、実業家。衆議院議員。貴族院議員。参議院議員。武蔵野銀行初代頭取。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
50 | 美土路昌一 津山市 | Wikipedia |
美土路 昌一(みどろ ますいち、1886年7月16日 - 1973年5月11日)は、日本のジャーナリスト、実業家。全日本空輸初代社長、朝日新聞社社長を歴任したことで知られている。号は春泥。 | ||
51 | 田中完三 佐渡市 | Wikipedia |
田中 完三(たなか かんぞう、1886年1月20日 - 1986年1月9日)は日本の実業家。三菱商事の社長・会長、三菱本社の社長を務めた。 | ||
52 | 安川第五郎 芦屋町 | Wikipedia |
安川 第五郎(やすかわ だいごろう、1886年(明治19年)6月2日 - 1976年(昭和51年)6月25日)は、日本の実業家。安川電機社長、九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力産業会議会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長。 | ||
53 | 根岸耕一 | Wikipedia |
根岸 耕一(ねぎし こういち、1886年11月 - 1933年11月2日)は、日本の実業家、映画製作者である。日本活動写真(現在の日活)で本社支配人、向島撮影所長、常務取締役を歴任した。日活向島撮影所で初めて「監督制度」を敷いた人物である[2]。 | ||
明治大学出身 出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
54 | 吉本吉兵衛 大阪市 | Wikipedia |
吉本 吉兵衛(よしもと きちべえ、本名吉本 吉次郎、1886年12月5日 - 1924年2月13日)は吉本興業創業者。芸能プロモーター。大阪市東区内本町橋詰町(現・中央区本町橋)出身。通称吉本 泰三。 | ||
55 | 石田礼助 松崎町 | Wikipedia |
石田 礼助(いしだ れいすけ、1886年(明治19年)2月20日 - 1978年(昭和53年)7月27日)は、日本の実業家。三井物産代表取締役社長・日本国有鉄道元総裁。本名・石田 禮助(読みは同じ)。 | ||
一橋大学出身 出身の一橋大学の出身者 全国の一橋大学の出身者 | ||
56 | 河合小市 浜松市 | Wikipedia |
河合 小市(かわい こいち、1886年1月5日 - 1955年10月5日)は昭和の実業家、河合楽器製作所創設者・初代社長。ピアノ製造技師。 | ||
57 | 青木繁吉 土佐市 | Wikipedia |
青木 繁吉(あおき しげきち、1886年12月21日 - 1971年4月21日)は日本の実業家。太陽石油の創業者。 | ||
58 | 古田俊之助 京都市 | Wikipedia |
古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)10月15日 - 1953年(昭和28年)3月23日)は、日本の実業家で、第七代住友総理事である。第2次大戦の敗戦により、住友財閥が解体され、住友最後の総理事となる。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
59 | 大宮庫吉 宇和島市 | Wikipedia |
大宮 庫吉(おおみや くらきち 1886年(明治19年)4月1日 - 1972年(昭和47年)1月19日)は、大正・昭和時代の日本の実業家。寳酒造を日本有数の酒造会社にした宝酒造中興の祖。愛媛県宇和島市出身。 | ||
60 | 太田祐雄 | Wikipedia |
太田祐雄(おおた すけお・1886年-1956年)は日本の自動車技術者。1957年に日本内燃機と合併するまで存在していた日本の自動車メーカー・オオタ自動車工業の創業者である。 | ||
61 | 2代目伊藤忠兵衛 豊郷町 | Wikipedia |
二代目 伊藤 忠兵衛(にだいめ いとう ちゅうべえ、1886年(明治19年)6月12日 - 1973年(昭和48年)5月29日)は、日本の実業家。伊藤忠財閥の2代目当主である。従三位勲一等瑞宝章。幼名は精一(せいいち)。 |
医師・看護師
62 | 中村徳吉 米子市 | Wikipedia |
中村 徳吉(なかむら とくきち、明治19年(1886年)- 昭和49年(1974年))は、日本の医師(外科医)。旧姓西村。医学博士。臨床外科医学会の権威。 | ||
63 | 増島徳 狭山市 | Wikipedia |
増島 徳(ますじま とく、1886年1月29日 - 1965年6月21日)は、埼玉県の医師、政治家。奥富村(現狭山市)出身。 |
その他芸術家
64 | 小島与一 福岡市 | Wikipedia |
小島 与一(こじま よいち、明治19年(1886年)8月18日 - 昭和45年(1970年)6月6日)は博多人形師。 |
軍人
65 | 小松原道太郎 | Wikipedia |
小松原 道太郎(こまつばら みちたろう、1886年7月20日 - 1940年10月6日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
66 | 小林照彦 | Wikipedia |
小林 照彦(こばやし てるひこ、1920年(大正9年)11月17日 - 1957年(昭和32年)6月4日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は帝国陸軍では陸軍少佐、空自では2等空佐。 | ||
67 | 喜多誠一 | Wikipedia |
喜多 誠一(きた せいいち、1886年(明治19年)12月20日 - 1947年(昭和22年)8月7日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。階級は陸軍大将正三位勲一等功四級に至る。 | ||
68 | 鈴木重康 | Wikipedia |
鈴木 重康(すずき しげやす、1886年(明治19年)9月1日 - 1957年(昭和32年)6月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
69 | 小沢治三郎 高鍋町 | Wikipedia |
小沢 治三郎(おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校37期生。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。 | ||
70 | 井上貞衛 | Wikipedia |
井上 貞衛(いのうえ さだえ、1886年11月5日 - 1961年10月26日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
71 | 佐々木到一 | Wikipedia |
佐々木 到一(ささき とういち、1886年1月27日 - 1955年5月30日)は、日本の陸軍の軍人。陸士18期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。陸軍きっての中国通で、蒋介石以下国民党領袖のほとんどと親しく、国民党の革命にも理解をよく理解を示した。人民服(中山装)の考案、デザインを行った事でも有名。 | ||
72 | 上月良夫 | Wikipedia |
上月 良夫(こうづき よしお、1886年11月7日 - 1971年4月3日)は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。熊本県出身。陸士21期、陸大29期。 | ||
73 | 磯谷廉介 | Wikipedia |
磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年9月3日 - 1967年6月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争期に日本占領下の香港で総督を務めた。 | ||
74 | 河辺正三 | Wikipedia |
河辺 正三(かわべ まさかず、1886年12月5日 - 1965年3月2日)は、昭和初期の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。富山県出身。ビルマ方面軍司令官、航空総軍司令官、第1総軍司令官を歴任した。インパール作戦を指揮した第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の上官でもあった。また、河辺虎四郎の兄でもある。陸士卒(19期)、陸大卒(27期)。 | ||
75 | 山脇正隆 | Wikipedia |
山脇 正隆(やまわき まさたか、1886年(明治19年)3月2日 - 1974年(昭和49年)4月21日)は、日本の陸軍軍人、陸軍大将。官位は従三位勲一等功三級。 | ||
76 | 佐々木到一 | Wikipedia |
佐々木 到一(ささき とういち、1886年1月27日 - 1955年5月30日)は、日本の陸軍の軍人。陸士18期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。陸軍きっての中国通で、蒋介石以下国民党領袖のほとんどと親しく、国民党の革命にも理解をよく理解を示した。人民服(中山装)の考案、デザインを行った事でも有名。 | ||
77 | 岩松義雄 | Wikipedia |
岩松 義雄(いわまつ よしお、1886年5月3日 - 1958年4月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
78 | 小須田勝造 | Wikipedia |
小須田 勝造(こすだ かつぞう、1886年2月20日 - 1977年12月26日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。 | ||
79 | 塚田攻 | Wikipedia |
塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942年12月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
80 | 今村均 | Wikipedia |
今村 均(いまむら ひとし、1886年6月28日 - 1968年10月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。 | ||
81 | 佐藤正四郎 | Wikipedia |
佐藤 正四郎(さとう せいしろう、1886年(明治19年)10月25日 - 1958年(昭和33年)7月7日)は、日本の海軍軍人。二・二六事件において、東京に出動した海軍陸戦隊の指揮官を務めた海軍少将である。 | ||
82 | 小林宗之助 | Wikipedia |
小林 宗之助(こばやし そうのすけ、1886年10月2日 - 1975年3月17日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
83 | 阿部平輔 | Wikipedia |
阿部 平輔(あべ へいすけ、1886年(明治19年)12月18日 - 1943年(昭和18年)6月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
84 | 大島浩 恵那市 | Wikipedia |
大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の昭和期の陸軍軍人である。最終階級は陸軍中将。 | ||
85 | 沢本頼雄 | Wikipedia |
沢本 頼雄(さわもとよりお、1886年(明治19年)11月15日 - 1965年(昭和40年)6月29日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校36期、海軍大学校17期。最終階級は海軍大将。山口県出身。兵学校の同期生に南雲忠一大将、清水光美中将、塚原二四三大将、有栖川宮栽仁王少尉などがいる。 | ||
86 | 近藤信竹 | Wikipedia |
近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月25日 - 1953年(昭和28年)2月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 |
官僚
87 | 落合慶四郎 | Wikipedia |
落合 慶四郎(おちあい けいしろう、1886年(明治19年)4月16日 - 1965年(昭和40年)3月12日[2])は、日本の内務官僚。徳島県知事、東京市第一助役、宇都宮市長、福井市長。 | ||
88 | 佐藤正俊 | Wikipedia |
佐藤 正俊(さとう まさとし、1886年(明治19年)9月18日 - 1962年(昭和37年)5月3日[2])は、日本の官僚。香川県知事、三重県知事、名古屋市長を歴任した。 | ||
89 | 平田紀一 | Wikipedia |
平田 紀一(ひらた きいち / のりかず、1886年(明治19年)3月17日 - 1938年(昭和13年)5月28日[2])は、日本の官僚。山梨県知事、群馬県知事、富山市長を歴任した。 |
公務員
90 | 栗山茂 | Wikipedia |
栗山 茂(くりやま しげる 1886年10月6日 - 1971年2月3日)は、日本の元最高裁判所判事(任期は1947年8月4日 - 1956年10月5日)、外交官(駐ベルギー大使等)。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
91 | 来栖三郎 横浜市 | Wikipedia |
来栖 三郎(くるす さぶろう、1886年3月6日 - 1954年4月7日)は、日本の外交官。駐ドイツ特命全権大使としてベルリンで日独伊三国軍事同盟に調印。その後、特命全権大使としてアメリカ合衆国に派遣され、太平洋戦争直前の日米交渉にあたる。戦後GHQにより公職追放された。 | ||
一橋大学出身 出身の一橋大学の出身者 全国の一橋大学の出身者 | ||
92 | 栗山茂 | Wikipedia |
栗山 茂(くりやま しげる 1886年10月6日 - 1971年2月3日)は、日本の元最高裁判所判事(任期は1947年8月4日 - 1956年10月5日)、外交官(駐ベルギー大使等)。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 |
学者・教授・准教授
93 | 岡田満 守山市 | Wikipedia |
岡田 満(おかだ みつる、1886年4月19日 - 1962年4月28日)は、日本の大正・昭和期における歯科医大学教授。滋賀県出身者の歯科医として、初の医学博士。 | ||
東京歯科大学出身 出身の東京歯科大学の出身者 全国の東京歯科大学の出身者 | ||
94 | 田村徳治 鹿角市 | Wikipedia |
田村 徳治(たむら とくじ、1886年7月14日 - 1958年11月25日)は、日本の行政学者・政治学者。蝋山政道と並ぶ日本の行政学創始者の一人。博士(法学)(京都帝国大学)。秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)生まれ。 | ||
95 | 佐伯矩 | Wikipedia |
佐伯 矩(さいき ただす、1886年9月1日 - 1959年11月29日)は、日本の医学博士で、栄養学の創始者、栄養学の父である。医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させた。自分で料理をすることはほとんどなかった。 | ||
岡山大学出身 出身の岡山大学の出身者 全国の岡山大学の出身者 | ||
96 | 赤羽一雄 伊那市 | Wikipedia |
赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 1981年5月21日)は日本の教育者。号は王郎。 | ||
97 | 黒田徳米 南あわじ市 | Wikipedia |
黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1987年5月15日)は、日本の博物学者、貝類学者。 | ||
98 | 中田章 会津若松市 | Wikipedia |
中田 章(なかだ あきら、1886年(明治19年)7月8日 - 1931年(昭和6年)11月27日)は日本の作曲家、オルガニスト。東京都出身で高嶺秀夫の奨めによって東京音楽学校に進み、甲種師範科及び研究科卒業。東京音楽学校教授として音楽理論、オルガンを教えた。また、大韓帝国皇太子に唱歌を教授する。1929年、大礼記念章を受章。父は旧会津藩士。妻は奥村土牛の従姉で、作曲家の中田一次は次男、中田喜直は三男。会津会会員。 | ||
99 | 武田祐吉 中央区 | Wikipedia |
武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 1958年3月29日)は、大正・昭和期の日本の国文学者。 | ||
國學院大學出身 出身の國學院大學の出身者 全国の國學院大學の出身者 | ||
100 | 影山堯雄 人吉市 | Wikipedia |
影山 堯雄(かげやま ぎょうお、1886年8月10日 - 1983年5月22日)は、日蓮宗の僧、仏教史学者。 | ||
101 | 上埜進 高岡市 | Wikipedia |
会計学者:高岡市 | ||
富山大学出身 出身の富山大学の出身者 全国の富山大学の出身者 | ||
102 | 高橋里美 | Wikipedia |
高橋 里美(たかはし さとみ、1886年(明治19年)11月28日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は男性の哲学者、東北大学名誉教授。文化功労者。 | ||
立教大学出身 出身の立教大学の出身者 全国の立教大学の出身者 | ||
103 | 本間久雄 | Wikipedia |
本間 久雄(ほんま ひさお、明治19年(1886年)10月11日 - 昭和56年(1981年)6月11日)は、米沢市出身の英文学者、国文学者、文学博士。早稲田大学名誉教授。実践女子大学名誉教授。弟に日本画家の本間国生がいる。 | ||
104 | 真島正市 さぬき市 | Wikipedia |
真島 正市(まじま まさいち、1886年12月15日 - 1974年4月28日)は、日本の応用物理学者。東京大学名誉教授。元東京理科大学学長。 | ||
東北帝国大学出身 出身の東北帝国大学の出身者 全国の東北帝国大学の出身者 | ||
105 | 山本祥吉 広島市 | Wikipedia |
山本 祥吉(やまもと しょうきち、1886年(明治19年)10月25日 - 1976年(昭和51年)10月28日)は日本の調味学者。農林省水産講習所教授、水産試験場技師、南興水産取締役、東海大学教授、東京水産大学講師。鰹節の研究を専門とし、味の素等の商品開発や南洋群島での水産事業に関わった。 | ||
106 | 黒田源次 | Wikipedia |
黒田 源次(くろだ げんじ、1886年12月4日 - 1957年1月13日)は、熊本県出身の日本の心理学者・美術史家。 | ||
107 | 勝田孝興 松江市 | Wikipedia |
勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 1976年5月23日)は、日本のアイルランド文学者、語学者。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
108 | 勝沼精蔵 神戸市 | Wikipedia |
勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年(明治19年)8月28日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、兵庫県生まれの医学者。医学博士。専門は血液学、神経病学。 名古屋帝国大学医学部教授、第三代目名古屋大学総長、第三代目国立名古屋病院院長を務めた。 | ||
109 | 掛谷宗一 坪生村 | Wikipedia |
掛谷 宗一(かけや そういち、1886年1月18日 - 1947年1月9日)は日本の数学者。東京帝国大学教授。統計数理研究所所長。 | ||
東北大学出身 出身の東北大学の出身者 全国の東北大学の出身者 | ||
110 | 石橋智信 夕張市 | Wikipedia |
石橋 智信(いしばし とものぶ、1886年5月15日 - 1947年12月21日)は、日本の宗教学者。文学博士[3]。東京帝国大学教授[3]。 | ||
111 | 磯永吉 福山市 | Wikipedia |
磯 永吉(いそ えいきち、1886年11月23日 - 1972年1月21日)は、日本の農学者、作物育種学者。元台北帝国大学(現台湾大学)教授。広島県福山市新馬場町出身。台湾米(蓬莱米)の父と呼ばれた。1928年北海道大学 農学博士 論文の題は「台湾稲ノ育種学的研究」。 | ||
112 | 駒井卓 姫路市 | Wikipedia |
駒井 卓(こまい たく、1886年5月9日 - 1972年7月9日)は、動物学者、日本学士院会員。兵庫県姫路市に生まれる。旧姓・福田。東京高等師範学校卒、東京帝国大学選科修了。コロンビア大学留学ののち、1925年京都帝国大学、東京帝大兼任教授、1947年東大定年退官、1948年学士院会員、1949年国立遺伝学研究所部長。 | ||
113 | 内藤多仲 | Wikipedia |
内藤多仲(ないとう たちゅう、1886年6月12日 - 1970年8月25日)は日本の建築構造技術者・建築構造学者。一級建築士(登録番号第17200号)。「耐震構造の父」と評される。「塔博士」とも呼ばれている。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
114 | 西田直二郎 大阪市 | Wikipedia |
西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年12月23日 - 1964年12月26日)は、国史学者。大阪府生まれ。本名・直二。 | ||
115 | 前田鼎 高島市 | Wikipedia |
前田 鼎(まえだ かなえ、1886年(明治19年)4月16日 - 1961年(昭和36年)7月2日)は、医学者、京都帝国大学医学部長・名誉教授。第三高等学校長も務めた。 | ||
116 | 黒崎幸吉 鶴岡市 | Wikipedia |
黒崎 幸吉(くろさき こうきち、1886年(明治19年)5月2日 - 1970年(昭和45年)6月6日)は、日本の聖書学者、キリスト教伝道者。山形県西田川郡鶴岡町(現:鶴岡市)出身。 | ||
117 | 橋本忠太郎 日野町 | Wikipedia |
橋本 忠太郎(はしもと ちゅうたろう、明治19年(1886年)7月3日 - 昭和35年(1960年)2月5日)は、明治から昭和にかけての植物学者、教師。滋賀県女子師範学校等で教鞭をとりつつ滋賀県下の植物調査を行った。 | ||
滋賀大学出身 出身の滋賀大学の出身者 全国の滋賀大学の出身者 | ||
118 | 今井登志喜 | Wikipedia |
今井 登志喜(いまい としき、1886年6月8日 - 1950年3月21日)は、西洋史学者、東京帝国大学名誉教授。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 |
研究者・研究家・発明家
119 | 青木文教 高島市 | Wikipedia |
青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年)9月28日 - 1956年(昭和31年)11月7日)は日本のチベット研究者で僧侶。チベット=西本願寺間の交換留学生としてチベットのラサ市に派遣され、ダライ・ラマ13世の教学顧問を務めた。 | ||
龍谷大学出身 出身の龍谷大学の出身者 全国の龍谷大学の出身者 | ||
120 | 八木秀次 | Wikipedia |
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、日本の工学者(電気工学)、実業家、政治家。一般的に八木アンテナとして知られる八木・宇田アンテナの発明家として知られる。 | ||
千葉工業大学出身 出身の千葉工業大学の出身者 全国の千葉工業大学の出身者 | ||
121 | 佐々木喜善 | Wikipedia |
佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年10月5日 - 1933年9月29日)は、日本の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。佐々木は自身について、資料収集者であり学者ではないと述べているが、一般には学者として扱われる。 | ||
東洋大学出身 出身の東洋大学の出身者 全国の東洋大学の出身者 |
画家・写真家・書道家・彫刻家・陶芸家・漆芸家・工芸家
122 | 黒木拝石 水上村 | Wikipedia |
黒木拝石(くろき はいせき、1886年10月‐1950年9月14日)は熊本県出身の書家。拝石は号で、本名は一二。 | ||
123 | トーマス永井 | Wikipedia |
トーマス永井(とーます ながい、1886年 - 1966年)は洋画家。魔術的リアリズムの担い手として独自の作風を確立。しかし太平洋戦争の混乱によりその業績は長らく埋もれたままになっていた。忘れられた洋画家として近年評価が急速に高まってきている。本名は永井富三(ながい とみぞう) | ||
124 | 藤田嗣治 相模原市 | Wikipedia |
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれのフランスの画家・彫刻家。第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタ(Léonard Tsugouharu Foujita、レオナール・フジタとも)。 | ||
125 | 藤田嗣治 | Wikipedia |
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。 | ||
東京芸術大学出身 出身の東京芸術大学の出身者 全国の東京芸術大学の出身者 | ||
126 | 五味清吉 盛岡市 | Wikipedia |
五味 清吉(ごみ せいきち、1886年(明治19年)1月1日 - 1954年(昭和29年)8月19日は、大正から昭和前期の洋画家。 | ||
127 | 名取春仙 | Wikipedia |
名取 春仙(なとり しゅんせん、1886年(明治19年)2月7日 - 1960年(昭和35年)3月30日)は、明治から昭和時代の版画家、挿絵画家、浮世絵師。 | ||
128 | 川崎小虎 高山市 | Wikipedia |
川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月8日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、日本の画家。岐阜県生まれ。 | ||
129 | 山根八春 松江市 | Wikipedia |
山根八春(やまね やつはる、1886年 - 1973年)は、日本の彫刻家。島根県松江市出身。八春は「はっしゅん」とも読む。 | ||
130 | 野原櫻州 | Wikipedia |
野原 櫻州(のはら おうしゅう、1886年(明治19年) - 1933年(昭和8年)2月28日)は明治から昭和にかけて活躍した日本画家である。野原桜州とも表記される。 | ||
131 | 田中保 旧岩槻市 | Wikipedia |
田中 保(たなか やすし、1886年5月13日 - 1941年4月24日)は、日本の美術家。埼玉県南埼玉郡岩槻町(現・さいたま市)出身。浦和画家の一人で、海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びた。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリにおいて客死したため、その生涯はほとんど知られていなかったが、次第にその業績が知られるところになり、近年評価と関心が高まってきている。 | ||
132 | 長谷川昇 会津若松市 | Wikipedia |
長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 1973年8月26日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。 | ||
東京美術学校出身 出身の東京美術学校の出身者 全国の東京美術学校の出身者 |
政治家・議員・首長
133 | 加納久朗 一宮町 | Wikipedia |
加納 久朗(かのう ひさあきら、明治19年(1886年)8月1日 - 昭和38年(1963年)2月21日)は、日本の銀行家、政治家。子爵。千葉県出身。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
134 | 大森玉木 七尾市 | Wikipedia |
大森 玉木(おおもり たまき、1886年(明治19年) - 1964年(昭和39年)2月)は、日本の政治家、興行師。 | ||
135 | 谷口久次郎 長浜市 | Wikipedia |
谷口 久次郎(たにぐち きゅうじろう、1886年6月15日 - 1973年8月9日)は日本の政治家。滋賀県知事を2期8年務めた。『百姓知事』と親しまれた。 | ||
136 | 林屋亀次郎 金沢市 | Wikipedia |
林屋 亀次郎(はやしや かめじろう、1886年(明治19年)6月1日 - 1980年(昭和55年)5月4日)は、石川県金沢市生まれの実業家、政治家。参議院議員(3期)。 | ||
137 | 佐々木家寿治 大崎市 | Wikipedia |
佐々木 家寿治(ささき かずじ / かじゅじ、1886年12月7日 - 1954年3月2日)は、日本の政治家。宮城県知事を1期務めた。「百姓知事」と言われ県民の人気も高かった。 | ||
138 | 三辺長治 富山市 | Wikipedia |
三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月23日 - 1958年(昭和33年)4月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、東京市助役。 | ||
東京帝国大学出身 出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
139 | 金森徳次郎 名古屋市 | Wikipedia |
金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年3月17日 - 1959年6月16日)は、日本の官僚、政治家、憲法学者。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
140 | 矢野庄太郎 | Wikipedia |
矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年1月10日 - 1949年6月21日)は、昭和期の日本の男性政治家。大蔵大臣。 | ||
明治大学出身 出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
141 | 中野正剛 福岡市 | Wikipedia |
中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は日本のジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
142 | 太田正孝 | Wikipedia |
太田 正孝(おおた まさたか、1886年11月13日 - 1982年7月10日)は静岡県出身の大蔵官僚、政治家。衆議院議員選挙に7回、参議院議員選挙に1回当選した。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
143 | 宮崎一 旧浦和市 | Wikipedia |
宮崎 一(みやざき はじめ、1886年(明治19年)11月21日 – 1951年(昭和26年)10月10日[2])は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 | ||
144 | 小平重吉 下野市 | Wikipedia |
小平 重吉(こだいら じゅうきち、1886年9月10日 - 1960年4月3日)は、栃木県出身の日本の政治家。 | ||
明治大学出身 出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
145 | 風見章 常総市 | Wikipedia |
風見 章(かざみ あきら、1886年(明治19年)2月12日 - 1961年(昭和36年)12月20日)は、日本の昭和期の政治家。立憲民政党、国民同盟、日本社会党に所属の衆議院議員。当選9回。第1次近衛内閣で内閣書記官長、第2次近衛内閣で司法大臣。茨城県豊田郡水海道町(のち常総市)出身。旧水海道市名誉市民。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
146 | 山中恒三 周南市 | Wikipedia |
山中 恒三(やまなか つねぞう、1886年(明治19年)6月23日 - 1975年(昭和50年)7月1日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選県知事。 | ||
147 | 山内亮 八戸市 | Wikipedia |
山内 亮(やまうち りょう、1886年(明治19年)12月20日 - 1960年(昭和35年)7月26日)は、日本の政治家。青森県八戸市の5代目市長。終戦直前の1945年8月、米軍による空襲の予告を受けて全市民に総退去を命じた。 | ||
148 | 森岡二朗 | Wikipedia |
森岡 二朗(もりおか じろう、1886年5月1日 - 1950年12月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、台湾総督府総務長官。 | ||
149 | 井上英 | Wikipedia |
井上 英(いのうえ えい、1886年(明治19年)12月 - 1975年(昭和50年)4月2日[2])は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選佐賀県知事、旭川市長、新潟市長。旧姓・村田。 | ||
150 | 佐々木家寿治 | Wikipedia |
佐々木 家寿治(ささき かずじ / かじゅじ、1886年12月7日 - 1954年3月2日)は、日本の政治家。宮城県知事を1期務めた。「百姓知事」と言われ県民の人気も高かった。 | ||
岩手大学出身 出身の岩手大学の出身者 全国の岩手大学の出身者 | ||
151 | 菅谷勘三郎 東吾妻町 | Wikipedia |
菅谷勘三郎(すがや かんざぶろう、1886年 - 1953年)は、昭和時代の日本の政治家。元群馬県議会議員(7期)、群馬県議会議長。群馬県吾妻郡岩島村(現東吾妻町)出身。 | ||
152 | 岡田徳輔 蕨市 | Wikipedia |
岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年-1971年)は、日本の政治家、実業家。埼玉県蕨市長。 | ||
一橋大学出身 出身の一橋大学の出身者 全国の一橋大学の出身者 | ||
153 | 村井八郎 | Wikipedia |
村井 八郎(むらい はちろう、1886年(明治19年)12月24日 - 1970年(昭和45年)10月11日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。衆議院議員、福島県知事、郡山市長、川崎市長、会津若松市長を歴任した。旧姓・阿部。 | ||
154 | 井上知治 南九州市 | Wikipedia |
井上 知治(いのうえ ともはる、1886年7月9日 - 1962年9月19日)は、日本の政治家。元国務大臣。 | ||
155 | 猪野毛利栄 | Wikipedia |
猪野毛 利栄(いのけ としえ、旧字体:猪野毛 利榮、1886年(明治19年)1月5日 - 1952年(昭和27年)10月11日)は、日本のジャーナリスト・政治家、衆議院議員(6期)。 | ||
日本大学出身 出身の日本大学の出身者 全国の日本大学の出身者 |
評論家
156 | 中村武羅夫 岩見沢市 | Wikipedia |
中村 武羅夫(なかむら むらお、1886年(明治19年)10月4日 - 1949年(昭和24年)5月13日)は、日本の編集者、小説家、評論家。 | ||
157 | 飛田穂洲 水戸市 | Wikipedia |
飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年(明治19年)12月1日 - 1965年(昭和40年)1月26日)は、茨城県出身の野球選手(内野手)、学生野球指導者、野球評論家。本名は飛田 忠順(とびた ただより、とびた ちゅうじゅん)。 |
宗教家・思想家・運動家
158 | 井上日召 | Wikipedia |
井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年4月12日 - 1967年3月4日)は、日本の宗教家、政治運動家、テロリスト。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
159 | 大川周明 | Wikipedia |
大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年(明治19年)12月6日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。 | ||
160 | 高畠素之 | Wikipedia |
高畠 素之(たかばたけ もとゆき、1886年1月4日 - 1928年12月23日)は日本の社会思想家、哲学者。国家社会主義を唱えた。 | ||
同志社大学出身 出身の同志社大学の出身者 全国の同志社大学の出身者 | ||
161 | 平塚らいてう 麹町 | Wikipedia |
平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、本名:平塚 明(ひらつか はる)、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、戦前と戦後に亘(わた)る女性解放運動家。戦後は主に反戦・平和運動に参加した。日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部卒。 | ||
日本女子大学出身 出身の日本女子大学の出身者 全国の日本女子大学の出身者 |
俳人・歌人・詩人・歌人
162 | 石川啄木 | Wikipedia |
石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本の歌人、詩人。本名は石川 一(いしかわ はじめ)。 | ||
163 | 古泉千樫 鴨川市 | Wikipedia |
古泉 千樫(こいずみ ちかし、1886年9月26日 - 1927年8月11日)は、日本の歌人。本名は幾太郎。 | ||
164 | 服部嘉香 新宿区 | Wikipedia |
服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本の詩人、歌人、国語学者。 | ||
165 | 室積徂春 大津市 | Wikipedia |
室積 徂春(むろづみ そしゅん、1886年(明治19年)12月17日 - 1956年(昭和31年)12月4日)は、滋賀県出身の日本の俳人。別号に碌々子、平明居主人、碌二道人など。旧姓は増永、本名は尚(たかし)。 | ||
166 | 三ヶ島葭子 所沢市 | Wikipedia |
三ヶ島 葭子(みかじま よしこ、本名:三ヶ島よし→倉片よし、1886年(明治19年)8月7日 - 1927年(昭和2年)3月26日)は、日本の女流歌人。生涯で6000首以上の短歌を残したという[2]。 | ||
167 | 高田蝶衣 淡路市 | Wikipedia |
高田 蝶衣(たかだ ちょうい、1886年1月30日 - 1930年9月23日)は、兵庫県津名郡釜口村字里(現:淡路市釜口字里)出身の俳人。旧制洲本中学校卒。中学の教頭・大谷繞石の影響で俳句をはじめ「ホトトギス」に投句、同人誌「落葉」を主宰。1904年、早稲田大学政経科入学。1906年、高浜虚子の 「俳諧散心句会」に参加し指導を受ける。同年、肋膜炎のため大学を中退し帰郷。故郷で小学校の教諭となるが、病のため続かず俳句を主とし「ホトトギス」「懸葵」に投句した。1908年に句集『島舟』(俳書堂)を出版。河東碧梧桐門とも交流があった。1917年に神戸湊川神社の主典となったが、やはり病の悪化のため1919年に帰郷している。1930年、淡路島で死去。44歳。代表句に「この国の表裏をつくり山眠る」などがあり、清新な叙情性のある句風であった。没後1933年に『蝶衣句稿 青垣山』、1941年に『蝶衣俳句全集』が刊行されている。 | ||
168 | 木下利玄 岡山市 | Wikipedia |
木下 利玄(きのした りげん、1886年(明治19年)1月1日 - 1925年(大正14年)2月15日)は日本の歌人、子爵。本名は利玄(としはる)。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
169 | 萩原朔太郎 前橋市 | Wikipedia |
萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日)は、日本の詩人。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。 | ||
慶應義塾大学出身 出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
170 | 若林牧春 町田市 | Wikipedia |
若林 牧春(わかばやし ぼくしゅん、男性、1886年9月11日 - 1974年6月29日)は、明治・大正・昭和期の日本の歌人、詩人、教育者。本名は岡部 軍治[注 1](おかべ ぐんじ)。他の雅号に暁花、星骨がある。 | ||
171 | 高村智恵子 | Wikipedia |
高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年(明治19年)5月20日 - 1938年(昭和13年)10月5日、旧姓:長沼)は、日本の洋画家、紙絵作家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。夫の光太郎が彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』でも知られる。 | ||
日本女子大学出身 出身の日本女子大学の出身者 全国の日本女子大学の出身者 | ||
172 | 長谷川零余子 | Wikipedia |
長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年(明治19年)5月23日 - 1928年(昭和3年)7月27日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の俳人。群馬県出身。本名は長谷川諧三(旧姓富田)。東京大学薬学科専科を卒業。高浜虚子に師事し、「ホトトギス」の編集に従事。1916年、「枯野」を創刊。立体俳句を提唱する。東大卒のキャリアを感じさせる幾何学的な俳風で、知識人層の支持を得た。1928年、41歳の若さでこの世を去った。妻は俳人の長谷川かな女。小説家の三田完は孫。 | ||
173 | 安成二郎 北秋田市 | Wikipedia |
安成 二郎 (やすなり じろう、1886年9月19日 - 1974年4月30日)は、日本の歌人、小説家。評論家安成貞雄の弟にあたる。秋田縣立大舘中學校を中退した後に上京し、徳田秋声の門下生になった。短歌の創作を行う一方で、実業之世界社や平凡社の編集記者でもあった。内田魯庵、大杉栄らと交流を持ち、大杉の回想録「無政府地獄 - 大杉栄襍記」を戦後発表した。 | ||
174 | 原石鼎 出雲市 | Wikipedia |
原 石鼎(はら せきてい、1886年3月19日 - 1951年12月20日)は、島根県出身の俳人。高浜虚子に師事、「鹿火屋」を創刊・主宰。大正期の「ホトトギス」を代表する作家の一人で、色彩感覚に優れたみずみずしい作風で一世を風靡した。本名は鼎。初号・鉄鼎。別号・ひぐらし。 | ||
175 | 安斎桜磈子 登米市 | Wikipedia |
安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)2月7日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、宮城県登米市登米町出身の俳人。本名は千里(ちさと)である。 |
その他の職業
176 | 石田利作 岡崎市 | Wikipedia |
石田 利作(いしだ りさく、1886年6月6日 - 1967年3月6日)は、日本の教育者、郷土史家、行政官。『岡崎市戦災復興誌』(1954年)の責任編纂者として岡崎の郷土史に多大な功績を残した。 | ||
177 | 藤田左弌郎 柳井市 | Wikipedia |
藤田 左弌郎(ふじた さいちろう、1886年 - 1976年)は、山口県柳井市出身のバハイ教徒。イスラエルのハイファのバハイ世界センターにおいて、 アブドゥル・バハーやショーギ・エフェンディー、そして後に万国正義院のもとで長らく奉仕活動に携わった。 | ||
178 | 御船千鶴子 宇城市 | Wikipedia |
御船 千鶴子(みふね ちづこ、1886年(明治19年)7月17日 - 1911年(明治44年)1月19日)は、透視能力を持つ超能力者として福来友吉博士に紹介された女性。 | ||
179 | 吉良平治郎 釧路市 | Wikipedia |
吉良平治郎(きら へいじろう、1886年2月3日 - 1922年1月18日)は、アイヌ民族で北海道の釧路郵便局の逓送人(郵便配達員)である。 |