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宝塚・女優・俳優・声優・ナレーター・歌舞伎・能楽・狂言
1 | 市川百十郎 各務原市 | Wikipedia |
市川 百十郎(いちかわ ひゃくじゅろう、1882年(明治15年)5月15日 - 1969年(昭和44年)2月21日)は、明治時代から昭和時代に活躍した歌舞伎役者、旅芸人。 | ||
2 | 生方賢一郎 | Wikipedia |
生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年1月6日 - 1961年2月25日)は日本の俳優。群馬県利根郡新治村新巻(現在の同県同郡みなかみ町)出身。本名同じ。 | ||
関西大学出身 出身の関西大学の出身者 全国の関西大学の出身者 |
格闘技
3 | 神嵜重太郎 尼崎市 | Wikipedia |
神嵜重太郎(かんざきじゅうたろう、1882年9月13日-1942年5月22日)は、高砂部屋に所属した元力士。本名は寺内重三郎。現在の兵庫県尼崎市出身。166cm、75kg。最高位は東前頭13枚目。 | ||
4 | 千船川浪之助 大阪市 | Wikipedia |
千船川 浪之助(ちふねがわ なみのすけ、1882年4月8日 - 1949年1月24日)は、大阪府大阪市出身の力士。主に大阪相撲で取った。猪名川部屋所属。最高位は関脇。一場所だけ東京相撲にも移籍、東京では井筒部屋に所属した。173cm、92kg。本名は山田 茂吉。 | ||
5 | 相生枩五郎 和歌山市 | Wikipedia |
相生 枩五郎(あいおい まつごろう、1882年12月11日 - 1922年3月16日)は、朝日山部屋および高田川部屋(大阪)出羽海部屋(東京)に所属した元力士。本名は川口清一郎。身長166cm、体重109kg。現在の和歌山県和歌山市出身。最高位は東関脇。 | ||
6 | 氷見ヶ濱弥太郎 氷見市 | Wikipedia |
氷見ヶ濱 弥太郎(ひみがはま やたろう、1882年9月2日 - 1942年6月27日)は、稲川部屋に所属した元力士。本名は白石弥之助。現在の富山県氷見市出身。身長165cm、体重79kg。最高位は西前頭13枚目。 | ||
7 | 浪ノ音健藏 青森市 | Wikipedia |
浪ノ音健藏(なみのおとけんぞう、1882年3月14日-1967年11月25日)は、高砂部屋に所属した元力士。11代振分。本名は鎌田健藏。現在の青森県青森市出身。166cm、79kg。最高位は西関脇[3]。 | ||
8 | 紫雲竜吉之助 大網白里市 | Wikipedia |
紫雲竜吉之助(しうんりゅうきちのすけ、1882年1月7日-1946年4月28日)は、高砂部屋、阿武松部屋に所属した元力士。9代出来山、7代阿武松。大見嵜八之助の甥。本名は斎藤吉次郎。現在の千葉県大網白里市出身。172cm、86kg。最高位は東前頭筆頭。 |
野球
9 | 泉谷祐勝 神戸市 | Wikipedia |
泉谷 祐勝(いずみたに すけかつ、1882年(明治15年)3月 - 1967年(昭和42年)2月3日)は、日本のアマチュア野球選手。黎明期の早稲田大学野球部の中心選手であり、後には宮内省野球班を組織した。守備位置は捕手、一塁手。慶應義塾大学野球部の主将を務めた佐々木勝麿は実弟。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 |
作家・小説家・エッセイ・文筆・翻訳家・編集者
10 | 鈴木三重吉 広島市 | Wikipedia |
鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年(明治15年)9月29日 - 1936年(昭和11年)6月27日)は、広島県広島市出身の小説家・児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
11 | 片岡敏郎 | Wikipedia |
片岡 敏郎(かたおか としろう、1882年 - 1945年)は、戦前に活躍したコピーライター(当時の呼び名で「アドライター」)である。静岡県出身。 | ||
12 | 三井明子 | Wikipedia |
三井明子(みついあきこ)は、日本のコピーライター。 | ||
13 | 水谷竹紫 長崎市 | Wikipedia |
水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月8日 - 1935年(昭和10年)9月14日)は日本の劇作家、演出家、編集者。第2次芸術座の中心人物として活動した。 | ||
14 | 生方敏郎 | Wikipedia |
生方 敏郎(うぶかた としろう、1882年8月24日 - 1969年8月6日)は、日本の随筆家、文学者。 | ||
15 | 中根駒十郎 岡崎市 | Wikipedia |
中根 駒十郎(なかね こまじゅうろう、1882年 - 1964年)は、新潮社の編集者、専務取締役。 | ||
16 | 小川未明 上越市 | Wikipedia |
小川 未明 (おがわ みめい、1882年(明治15年)4月7日 - 1961年(昭和36年)5月11日)は、小説家・児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれる。娘の岡上鈴江も児童文学者。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 |
建築家・建築学者・技術者
17 | 久野節 | Wikipedia |
久野 節(くの みさお、1882年(明治15年)2月21日 - 1962年(昭和37年)8月7日)は、日本の建築家。鉄道省技師、中部鉄道管理局、鉄道省初代建築課長、逓信省技師を歴任。旧制堺中学校、東京帝国大学建築学科卒。従四位。 |
経営者・実業家
18 | 大倉邦彦 神埼市 | Wikipedia |
大倉 邦彦(おおくら・くにひこ、旧姓:江原 、1882年(明治15年)4月9日 - 1971年(昭和46年)7月25日)は日本の実業家・教育者。 | ||
19 | 江崎利一 | Wikipedia |
江崎 利一(えざき りいち、明治15年(1882年)12月23日 - 昭和55年(1980年)2月2日)は日本の実業家。江崎グリコの創業者。現社長・江崎勝久の祖父。 | ||
20 | 菊崎貫一 広島市 | Wikipedia |
菊崎 貫一(きくざき かんいち、1882年(明治15年)9月28日 - 没年不明)は、日本の商人(牛肉商・屠牛業[3]、皮革商[4]・製皮業[5])、実業家、広島県多額納税者[4][5]。族籍は広島県平民[6]。 | ||
21 | 国府田敬三郎 | Wikipedia |
国府田 敬三郎(こうだ けいざぶろう、1882年12月6日 - 1964年12月16日)は、日本の福島県出身の農場経営者。アメリカ合衆国カリフォルニア州で、大農方式による同地の気候に合った良質な米「国宝ローズ」の大量生産に成功し、「ライス・キング」と呼ばれた。 | ||
22 | 郷古潔 | Wikipedia |
郷古 潔(ごうこ きよし、1882年11月13日 - 1961年4月28日)は、三菱重工業社長、太平洋戦争時の東條内閣顧問。戦後はA級戦犯として逮捕され、公職追放された。 | ||
23 | 大橋広 倉敷市 | Wikipedia |
大橋 廣(おおはし ひろ、1882年3月18日 - 1973年2月20日、女性)は、日本の植物学者・教育者である。日本女子大学の学長を務め、日本家政学会を設立し、初代会長を務めた。 | ||
24 | 柴田雄次 | Wikipedia |
柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年1月28日 - 1980年1月28日)は、東京府出身の化学者。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。 | ||
25 | 金田一京助 成田市 | Wikipedia |
金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年(明治15年)5月5日 - 1971年(昭和46年)11月14日)は、日本の言語学者、民俗学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。國學院大學教授を経て東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。日本言語学会会長(2代目)。東京帝国大学より文学博士。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章・文化勲章。盛岡市名誉市民。歌人・石川啄木の親友であったことでも有名。 | ||
26 | 素木得一 函館市 | Wikipedia |
素木 得一 (しらき とくいち、1882年(明治15年)3月9日 - 1970年12月22日) は、日本の昆虫学者。日本応用動物昆虫学会元会長。応用昆虫学などを専門とし、害虫であるワタフキカイガラムシの大発生に対してベダリアテントウを導入して駆除を行い、日本において初めて天敵を利用した生物的防除を成功させたことで知られる。また多数の昆虫を新種として記載したことでも知られている。 | ||
27 | 津田弘 名古屋市 | Wikipedia |
ヒマラヤ製菓株式会社(ヒマラヤせいか)は、かつて存在した日本の洋菓子製造・販売会社。 | ||
28 | 宮原清 | Wikipedia |
宮原 清(みやはら きよし、1882年12月4日 - 1963年10月16日)は、日本の実業家。日本社会人野球協会初代会長。 | ||
慶應義塾大学出身 出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
29 | 五島慶太 青木村 | Wikipedia |
五島 慶太(ごとう けいた、1882年(明治15年)4月18日 - 1959年(昭和34年)8月14日)は日本の実業家。東京急行電鉄(東急)の事実上の創業者。正三位勲一等。旧姓は小林。 | ||
東京教育大学出身 出身の東京教育大学の出身者 全国の東京教育大学の出身者 |
医師・看護師
30 | 荻野久作 新潟市 | Wikipedia |
荻野 久作(おぎの きゅうさく、1882年3月25日 - 1975年1月1日)は産婦人科医、医学博士である。女性の月経周期と妊娠との関連性を研究した先駆的業績で知られる。 | ||
31 | 高橋房次 白老町 | Wikipedia |
高橋 房次(たかはし ふさじ、1882年12月18日 - 1960年6月29日)は、日本の医師。高木兼寛の「病気を診ずして病人を診よ」の言葉に感銘を受け、北海道白老町で地域医療に貢献した。アイヌも和人も差別せず、貧しい者からは治療代もとらなかった。患者の往診の依頼があれば大雪や吹雪の中でも深夜でも絶対に断らなかった。自身が賞を贈られることについては信条に反することであった。「コタンの赤ひげ」とか「コタンのシュバイツァー」とも呼ばれる。白老小学校に胸像が建てられた。 | ||
32 | 高橋房次 小山市 | Wikipedia |
高橋 房次(たかはし ふさじ、1882年12月18日 - 1960年6月29日)は、日本の医師。高木兼寛の「病気を診ずして病人を診よ」の言葉に感銘を受け、北海道白老町で地域医療に貢献した。アイヌも和人も差別せず、貧しい者からは治療代もとらなかった。患者の往診の依頼があれば大雪や吹雪の中でも深夜でも絶対に断らなかった。自身が賞を贈られることについては信条に反することであった。「コタンの赤ひげ」とか「コタンのシュバイツァー」とも呼ばれる。白老小学校に胸像が建てられた。 |
その他芸術家
33 | 河面冬山 広島市 | Wikipedia |
河面 冬山(こうも とうざん、1882年1月20日 - 1955年10月26日)は、漆工芸家。広島県広島市草津(現西区)生まれ。本名・冬一。 |
軍人
34 | 久村種樹 | Wikipedia |
久村 種樹(ひさむら たねき、1882年4月16日 - 1967年4月26日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
35 | 百武源吾 | Wikipedia |
百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第7代九州帝国大学総長。佐賀県出身。兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である。 | ||
36 | 黒羽根秀雄 鶴岡市 | Wikipedia |
黒羽根 秀雄(くろばね ひでお、1882年〈明治15年〉8月 - 1927年〈昭和2年〉4月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。「韓崎」艦長。「鶴見」特務艦長。「対馬」艦長。山形県東田川郡手向村(現・鶴岡市羽黒町)出身。 | ||
37 | 阿武天風 萩市 | Wikipedia |
阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年(明治15年)9月8日 - 1928年(昭和3年)6月22日)は日本の軍人、小説家、編集者。雑誌『冒険世界』の主筆を務めるなどして、冒険小説を多く発表した。代表作に『太陽は勝てり』など。 | ||
海軍兵学校出身 出身の海軍兵学校の出身者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
38 | 古荘幹郎 | Wikipedia |
古荘 幹郎(ふるしょう もとお、1882年9月14日 - 1940年7月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
39 | 金子養三 | Wikipedia |
金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月11日 - 1941年(昭和16年)12月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の最初期の搭乗員で、また搭乗員経験者として最初の将官となった。日本海軍飛行機の元祖、また海鷲育ての親ともいわれる[2]人物である。 | ||
40 | 今井清 | Wikipedia |
今井 清(いまい きよし、1882年9月10日 - 1938年1月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
41 | 大塚堅之助 | Wikipedia |
大塚 堅之助(おおつか けんのすけ、1882年(明治15年)7月2日)- 1962年(昭和37年)11月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
42 | 多田駿 | Wikipedia |
多田 駿(ただ はやお、1882年(明治15年)2月24日 - 1948年(昭和23年)12月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市生まれ。生家は旧仙台藩(伊達藩)士である。 | ||
43 | 滋野清武 名古屋市 | Wikipedia |
滋野 清武(しげの きよたけ、1882年10月6日-1924年10月13日)は、明治・大正期の飛行家である。男爵。通称をバロン滋野。 | ||
44 | 梅津美治郎 中津市 | Wikipedia |
梅津 美治郎(うめづ よしじろう[注釈 1]、1882年(明治15年)1月4日 - 1949年(昭和24年)1月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
45 | 中島完一 下呂市 | Wikipedia |
中島 完一(なかしま かんいち、1882年(明治15年)2月3日 - 1943年(昭和18年)2月19日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
46 | 谷寿夫 | Wikipedia |
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
47 | 高橋三吉 | Wikipedia |
高橋 三吉(たかはし さんきち、明治15年(1882年)8月24日 - 昭和41年(1966年)6月15日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 | ||
48 | 出光万兵衛 宗像市 | Wikipedia |
出光 万兵衛(いでみつ まんべえ、1882年11月9日 - 1964年7月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 スポーツキャスターの出光ケイは孫にあたる。 | ||
49 | 寺島健 田辺市 | Wikipedia |
寺島 健(てらじま けん、1882年(明治15年)9月23日 - 1972年(昭和47年)10月30日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍中将で予備役となったのち、東條内閣で逓信大臣、鉄道大臣を務めた。 |
官僚
50 | 大海原重義 彦根市 | Wikipedia |
大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)11月8日 - 1940年(昭和15年)11月21日)は、日本の内務官僚。府県知事。 | ||
51 | 東郷茂徳 日置市 | Wikipedia |
東郷 茂徳(とうごう しげのり、旧字体: 東鄕茂德、生名:朴茂德、1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。鹿児島県日置郡にあった、朝鮮人陶工の子孫で形成された集落「苗代川村」(現・日置市東市来町美山)の出身である。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
52 | 岡正雄 | Wikipedia |
岡 正雄(おか まさお、1882年(明治15年)12月 - 1948年(昭和23年)10月3日)は、日本の内務・警察官僚。憲政会系官選県知事、内務省警保局長。 | ||
53 | 大島破竹郎 | Wikipedia |
大島 破竹郎(おおしま はちくろう、1882年(明治15年)12月 - 1953年(昭和28年)6月12日)は、日本の官僚。佐賀県知事、高知県知事、郡山市長を歴任した。 |
学者・教授・准教授
54 | 小川清彦 | Wikipedia |
小川 清彦(おがわ きよひこ、1882年10月2日 - 1950年1月10日)は、明治から昭和期にかけての天文学者・暦学者。日本における古天文学の創始者と言われている。 | ||
東京理科大学出身 出身の東京理科大学の出身者 全国の東京理科大学の出身者 | ||
55 | 岩田新 知立市 | Wikipedia |
岩田 新(いわた あらた、1882年 - 1947年)は、日本の法学者。民法学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。日本で初めて事情変更の原則を論じた。国際私法の大平善梧一橋大名誉教授や商法の吉永榮助一橋大名誉教授は岩田ゼミ出身。なお、民法の後継者は出していない。 | ||
56 | 柴田雄次 | Wikipedia |
柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年1月28日 - 1980年1月28日)は、東京府出身の化学者。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。 | ||
57 | 菰田万一郎 | Wikipedia |
菰田 万一郎(こもだ まんいちろう、1882年11月9日 - 1940年3月6日)は日本の教育者。旧姓は早川。 | ||
58 | 田中寛一 | Wikipedia |
田中 寛一(たなか かんいち、1882年(明治15年)1月20日 - 1962年(昭和37年)11月12日)は、日本の教育心理学者。東京帝国大学文学博士[2]、東京文理科大学名誉教授。日本の心理測定の先駆者。「田中ビネー知能検査」「田中B式知能検査」をはじめ、多くの心理検査を考案した[3][4][5]。 | ||
京都大学出身 出身の京都大学の出身者 全国の京都大学の出身者 | ||
59 | 橋本進吉 | Wikipedia |
橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - 1945年1月30日)は、日本の言語学者・国語学者。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
60 | 河野省三 加須市 | Wikipedia |
河野 省三(こうの せいぞう、1882年8月10日 - 1963年1月8日)は、日本の神道学者。國學院大學学長。埼玉県出身。号は紫雲。 | ||
國學院大學出身 出身の國學院大學の出身者 全国の國學院大學の出身者 | ||
61 | 東恩納寛惇 那覇市 | Wikipedia |
東恩納 寛惇(ひがしおんな かんじゅん、1882年10月14日 - 1963年1月24日)は、日本の歴史学者である。沖縄県那覇市出身。 | ||
62 | 植村恒三郎 | Wikipedia |
植村 恒三郎(うえむら つねさぶろう、1882年(明治15年)2月 - 1945年(昭和20年)は、日本の林学者。林政学、森林経理学を専門とした九州帝国大学教授、同名誉教授である。入会権について史的研究を行い[3][4]、川瀬善太郎に続き入会権公有論を唱える[4]。また樺太に設けられた九州帝大演習林の指導、調査報告を行った[5]。「本邦に於ける林野の入会関係に就て」で林学博士(東京帝大)[6]。 | ||
63 | 堀切善兵衛 | Wikipedia |
堀切 善兵衛(ほりきり ぜんべえ、1882年(明治15年)5月4日 - 1946年(昭和21年)11月25日)は、日本の政党政治家・経済学者。立憲政友会所属[2]。 | ||
慶應義塾大学出身 出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
64 | 寺澤寛一 | Wikipedia |
寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1969年2月5日)は、日本の理論物理学者・数学者。日本学士院会員、東京帝国大学名誉教授、東京帝国大学総長事務取扱、理学部長、高等逓信講習所所長、千葉工業大学学長、電気通信大学学長などを歴任。多年にわたり東京帝国大学理学部物理学教室の運営に力があった。著書「自然科学者のための数学概論」は応用数学の名著として名高い。 | ||
65 | 橋田邦彦 倉吉市 | Wikipedia |
橋田 邦彦(はしだ くにひこ、1882年(明治15年)3月15日 - 1945年(昭和20年)9月14日)は、日本の医学者、教育者。医学博士。号は無適。旧姓藤田。生理学者藤田敏彦の実弟。 | ||
66 | 鈴木三重吉 成田市 | Wikipedia |
鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年(明治15年)9月29日 - 1936年(昭和11年)6月27日)は、広島県広島市出身の小説家・児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。 | ||
67 | 蓮沼門三 | Wikipedia |
蓮沼 門三(はすぬま もんぞう、1882年2月22日 - 1980年6月6日)は、社会教育団体「修養団」を設立した日本の社会教育家。 | ||
68 | 羽田亨 | Wikipedia |
羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日 - 1955年(昭和30年)4月13日)は東洋史学者。京都大学名誉教授。文化勲章受章者。 文学博士(京都帝国大学、1922年)。京都府峰山町(現・京丹後市)生まれ。 | ||
69 | 桑田義備 吹田市 | Wikipedia |
桑田 義備(くわだ よしなり、1882年(明治15年)10月5日 - 1981年(昭和61年)8月13日)は、植物細胞学者。京都大学名誉教授。大阪府生まれ。 | ||
70 | 寺沢寛一 米沢市 | Wikipedia |
寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1969年2月5日)は、日本の理論物理学者・数学者。日本学士院会員、東京帝国大学名誉教授、東京帝国大学総長事務取扱、理学部長、高等逓信講習所所長、千葉工業大学学長、電気通信大学学長などを歴任。多年にわたり東京帝国大学理学部物理学教室の運営に力があった。著書「自然科学者のための数学概論」は応用数学の名著として名高い。 | ||
71 | 岡本半次郎 福山市 | Wikipedia |
岡本 半次郎(おかもと はんじろう、1882年4月22日 - 1960年3月4日)は日本の教育者。昆虫学者、農学博士。 | ||
72 | 黒河内四郎 | Wikipedia |
黒河内 四郎(くろかわち しろう[注 1]/くろこうち しろう、1882年(明治15年)7月 - 1960年(昭和35年)6月3日)は、日本の鉄道省官僚、土木工学者(工学博士)。鉄道省工務局長を最後に退官し、東京高速鉄道技師長として現在の銀座線新橋、渋谷間の開通に貢献。第31代土木学会会長、初代日本保線協会会長。 | ||
73 | 金田一京助 | Wikipedia |
金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年(明治15年)5月5日 - 1971年(昭和46年)11月14日)は、日本の言語学者、民俗学者。アイヌ語の研究で有名で、彼の成し遂げた研究は「金田一学」と総称されている。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
74 | 郡場寛 旧青森村 | Wikipedia |
郡場 寛(こおりば かん、1882年(明治15年)9月6日 - 1957年(昭和32年)12月15日)は、日本の植物生理生態学者。理学博士。旧姓白戸。 | ||
75 | 村上武次郎 亀岡市 | Wikipedia |
村上 武次郎(むらかみ たけじろう、1882年11月10日 - 1969年7月29日)は冶金学者。 | ||
京都大学出身 出身の京都大学の出身者 全国の京都大学の出身者 | ||
76 | 小倉進平 仙台市 | Wikipedia |
小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年6月4日 - 1944年2月8日)は、日本の言語学者。朝鮮語研究、日本語研究。日本語研究にも多くの業績があるが、特に朝鮮語研究においてその後の研究の礎を築いた。 | ||
東京帝国大学出身 出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
77 | 荻野久作 豊橋市 | Wikipedia |
荻野 久作(おぎの きゅうさく、1882年3月25日 - 1975年1月1日)は産婦人科医、医学博士である。女性の月経周期と妊娠との関連性を研究した先駆的業績で知られる。 |
研究者・研究家・発明家
78 | 黒木勘蔵 | Wikipedia |
黒木勘蔵(くろき かんぞう、1882年9月10日 ‐ 1930年10月8日)は、日本近世文学研究者。 | ||
79 | 吉田巌 芽室町 | Wikipedia |
吉田 巌(よしだ いわお、1882年7月6日 - 1963年6月4日)は大正から昭和にかけての教育者、アイヌ民族研究家。 | ||
80 | 杉本京太 岡山市 | Wikipedia |
杉本 京太(すぎもと きょうた、1882年9月20日 - 1972年12月26日)は、邦文タイプライター(和文タイプライター)の発明者である。1985年、特許制度制定百周年を記念して人選された「日本の発明家十傑」に選ばれた。1953年藍綬褒章、1965年勲四等旭日小綬章を受勲した。 | ||
81 | 宇井伯寿 豊川市 | Wikipedia |
宇井 伯寿(うい はくじゅ、旧字体:伯壽、1882年(明治15年)6月1日 - 1963年(昭和38年)7月14日)は、日本の曹洞宗の僧侶、インド哲学研究者、仏教学者、文学博士。日本学士院会員。本名は茂七(しげしち)。 | ||
東京帝国大学出身 出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 |
画家・写真家・書道家・彫刻家・陶芸家・漆芸家・工芸家
82 | 青木繁 久留米市 | Wikipedia |
青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日 - 1911年(明治44年)3月25日)は日本の洋画家。 | ||
東京芸術大学出身 出身の東京芸術大学の出身者 全国の東京芸術大学の出身者 | ||
83 | 坂本繁二郎 久留米市 | Wikipedia |
坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、明治後期~昭和期の洋画家である。 | ||
東京芸術大学出身 出身の東京芸術大学の出身者 全国の東京芸術大学の出身者 | ||
84 | 川村驥山 | Wikipedia |
川村 驥山(かわむら きざん、1882年5月20日 - 1969年4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。 | ||
85 | 山本鼎 岡崎市 | Wikipedia |
山本 鼎(やまもと かなえ、1882年(明治15年)10月14日 - 1946年(昭和21年)10月8日) は、日本の版画家・洋画家・教育者。 | ||
86 | 有島生馬 横浜市 | Wikipedia |
有島 生馬(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年(明治15年)11月26日 - 1974年(昭和49年)9月15日)は、神奈川県横浜市出身の日本の画家。有島武郎の弟、里見弴の兄。 | ||
87 | 川村驥山 袋井市 | Wikipedia |
川村 驥山(かわむら きざん、1882年5月20日 - 1969年4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。 | ||
88 | 青木繁 筑西市 | Wikipedia |
青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日 - 1911年(明治44年)3月25日)は日本の洋画家。号は香葩。 | ||
89 | 内藤伸 雲南市 | Wikipedia |
内藤 伸(ないとう しん、1882年10月1日 - 1967年8月21日)は、彫刻家・日本芸術院会員。 |
政治家・議員・首長
90 | 工藤忠 板柳町 | Wikipedia |
工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさぶろう)、のち満洲国執政溥儀から「忠」名を与えられて、戸籍上も工藤忠に改名。明治15年(1882年)12月10日 - 昭和40年(1965年)12月18日)は、明治、大正、昭和期におけるアジア主義者の大陸活動家及び満州国の政治家。満州国の侍衛長。最終階級は満州国侍衛処長、宮内府顧問官。 | ||
91 | 佐藤尚武 | Wikipedia |
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官・政治家。林内閣で外務大臣、戦後には参議院議長等を歴任、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使でもあった。 | ||
一橋大学出身 出身の一橋大学の出身者 全国の一橋大学の出身者 | ||
92 | 小林橘川 守山市 | Wikipedia |
小林 橘川(こばやし きっせん、1882年(明治15年)10月1日 - 1961年(昭和36年)3月16日)は、ジャーナリストとして活動し戦後名古屋市長(1952年(昭和27年)9月 - 1961年(昭和36年)3月)に就任した。 | ||
93 | 千賀千太郎 岡崎市 | Wikipedia |
千賀 千太郎(せんが せんたろう、1882年11月24日 - 1962年2月21日)は、日本の実業家、政治家。近代岡崎の商工業者の第一人者として知られる。岡崎商工会議所の会頭を3期(通算約12年)、衆議院議員を1期務めた。長女の夫は一宮市の実業家・四代目豊島半七。 | ||
94 | 豊田収 北栄町 | Wikipedia |
豊田 収(とよだ おさむ、1882年(明治15年)11月25日 - 1969年(昭和44年)7月24日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員を6期務めた。青山学院大学講師、中央大学講師も務めた。 | ||
95 | 安孫子孝次 札幌市 | Wikipedia |
安孫子 孝次(あびこ こうじ / たかつぐ、1882年(明治15年)12月16日 - 1973年(昭和48年)3月26日)は、日本の農学者、教育者、政治家。衆議院議員、北海道札幌郡琴似町長。 | ||
96 | 鈴木隆 市原市 | Wikipedia |
鈴木 隆(すずき たかし、1882年(明治15年)1月13日 - 1978年(昭和53年)3月30日[2])は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(5期)。千葉県市原郡出身。 | ||
97 | 佐上信一 | Wikipedia |
佐上 信一(さがみ しんいち、1882年 - 1943年)は、日本の内務官僚。岡山県知事、長崎県知事、京都府知事、北海道庁長官などの要職を歴任した。 | ||
98 | 丸茂藤平 | Wikipedia |
丸茂 藤平(まるも とうへい、1882年(明治15年)3月25日 - 1956年(昭和31年)[2])は、日本の内務官僚、官選岩手県知事。旧姓・両角[3]。 | ||
99 | 三沢寛一 伊那市 | Wikipedia |
三沢 寛一(みさわ かんいち、1882年(明治15年)9月 - 1968年(昭和43年)7月15日[2])は、日本の文部・内務官僚、政治家。北海道札幌市長、山形県知事、島根県知事、札幌観光協会長[3]。 | ||
100 | 町村敬貴 江別市 | Wikipedia |
町村 敬貴(まちむら ひろたか、1882年12月 - 1969年8月12日)は、日本の政治家、実業家。貴族院勅選議員、参議院議員。正四位勲二等。 | ||
101 | 久米成夫 | Wikipedia |
久米 成夫(くめ なりお、1882年(明治15年)12月1日 - 1954年(昭和29年)9月29日)は、日本の内務官僚。政友会系官選県知事、鹿児島市長。 | ||
102 | 山岡国利 | Wikipedia |
山岡 国利(やまおか くにとし、1882年(明治15年)2月 - 1945年(昭和20年)3月25日[2])は、日本の内務・農商務官僚、実業家。官選県知事。旧姓・奥、旧名・堅次。 | ||
103 | 松村光三 栃木市 | Wikipedia |
松村 光三(まつむら こうぞう、1882年(明治15年)12月24日 – 1962年(昭和37年)6月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→自由党)、商工参与官、大蔵政務次官、軍需政務次官。 | ||
104 | 石山賢吉 新潟市 | Wikipedia |
石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年(明治15年)1月2日 ‐ 1964年(昭和39年)7月23日)は日本の実業家、ジャーナリスト、政治家。ダイヤモンド社創業者。 | ||
105 | 前田米蔵 | Wikipedia |
前田 米蔵(まえだ よねぞう[3]、1882年2月17日 - 1954年3月18日)は、日本の政党政治家。 | ||
中央大学出身 出身の中央大学の出身者 全国の中央大学の出身者 | ||
106 | 佐藤尚武 | Wikipedia |
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官・政治家。林内閣で外務大臣、戦後には参議院議長等を歴任、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使でもあった。 | ||
一橋大学出身 出身の一橋大学の出身者 全国の一橋大学の出身者 | ||
107 | 田中萬逸 富田林市 | Wikipedia |
田中 萬逸(たなか まんいつ、1882年9月23日 - 1963年12月5日)は、日本の政治家。国務大臣・衆議院副議長。 | ||
108 | 田渕豊吉 御坊市 | Wikipedia |
田渕 豊吉(たぶち とよきち、1882年(明治15年)2月23日 - 1943年(昭和18年)1月15日)は、明治・大正・昭和期における日本の政治家。無所属、衆議院議員(5期) | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
109 | 三善信房 嘉島町 | Wikipedia |
三善 信房(みよし のぶふさ、1882年5月14日 - 1965年4月4日)は、日本の政治家・農業指導者。衆議院議員(4期)。藍綬褒章、正四位勲二等瑞宝章受章。 | ||
110 | 高橋保 安曇野市 | Wikipedia |
高橋 保(たかはし たもつ、1882年(明治15年)3月8日[注 1] - 1972年(昭和47年)12月9日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員。 |
評論家
111 | 野村胡堂 | Wikipedia |
野村 胡堂(のむら こどう、1882年10月15日 - 1963年4月14日)は、日本の小説家・作家・音楽評論家。音楽評論家としての筆名は野村あらえびす。『銭形平次 捕物控』の作者として知られる。本名:野村 長一(のむら おさかず)、娘は作家の松田瓊子。 | ||
112 | 生田長江 日野町 | Wikipedia |
生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、小説家。 |
宗教家・思想家・運動家
113 | 平出慶一 富士見町 | Wikipedia |
平出 慶一(ひらいで けいいち、1882年(明治15年)8月15日 - 1975年)は、日本の牧師、神学校教師。日本福音キリスト教団の創設者。 | ||
114 | 久布白落実 | Wikipedia |
久布白 落実(くぶしろ おちみ、1882年12月16日 - 1972年10月23日)は、戦前戦後における女性解放運動家の一人。 |
俳人・歌人・詩人・歌人
115 | 斎藤茂吉 | Wikipedia |
斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月14日 - 1953年(昭和28年)2月25日)は、日本の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
116 | 矢田挿雲 | Wikipedia |
矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日 - 1961年(昭和36年)12月13日)は、石川県金沢市出身の小説家、俳人。本名は義勝[2]。矢田插雲とも。 | ||
117 | 石上露子 富田林市 | Wikipedia |
石上 露子(いそのかみ つゆこ、1882年(明治15年)6月11日 - 1959年(昭和34年)10月8日)は、日本の作家、歌人。大阪府富田林市出身。 雅号はゆふちどり。新詩社の社友となり、「明星」等に短歌、詩、小説等を発表した。本名杉山 孝(すぎやま たか)。代表作は「小板橋」。 | ||
118 | 岡田茂吉 | Wikipedia |
岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1955年〈昭和30年〉2月10日)は、日本の文化人。宗教家、文明評論家、書家、画家、歌人、華道流祖、造園家、建築家、美術品収集家。 | ||
119 | 野口雨情 宇都宮市 | Wikipedia |
野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。 | ||
120 | 満岡伸一 佐賀市 | Wikipedia |
満岡 伸一(みつおか しんいち、1882年 - 1950年)は、アイヌ文化研究家、俳人。妻の照子は北海道白老郡白老町に生まれ育ち、女流歌人として知られる。 | ||
121 | 嶋田青峰 志摩市 | Wikipedia |
嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本の俳人・翻訳家・新聞記者・教員。三重県答志郡[注 1]的矢村(現在の三重県志摩市磯部町的矢)出身。本名は賢平。姓の「しまだ」は「嶋田」と書くのが正式であるが、一般に「島田」の表記も用いられる。俳号の青峰は、故郷の山・青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する[2]。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
122 | 種田山頭火 防府市 | Wikipedia |
種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、戦前日本の俳人。よく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
123 | 細谷雄太 志木市 | Wikipedia |
細谷 雄太(ほそや ゆうた、1882年 - 1950年)は俳人、医学博士。俳号は細谷不句。別号に柚翁。 | ||
124 | 野口雨情 北茨城市 | Wikipedia |
野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日、本名・英吉)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた[2]。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
125 | 細谷不句: 河北町 | Wikipedia |
細谷 雄太(ほそや ゆうた、1882年 - 1950年)は俳人、医学博士。俳号は細谷不句。別号に柚翁。 | ||
126 | 野口雨情 武蔵野市 | Wikipedia |
野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。 |
その他の職業
127 | 白井柳治郎 洞爺湖町 | Wikipedia |
白井 柳治郎(しらい りゅうじろう、1882年〈明治15年〉7月12日 - 1966年〈昭和41年〉3月22日)は、日本の教育者。北海道でアイヌへの差別意識が根強かった明治時代において、差別意識に真っ向から立ち向かい、数々の教育改革に取り組んだ。同様にアイヌのために尽力した教育者である吉田巖と共に「アイヌ教育の父」とも呼ばれる[4]。茨城県真壁郡関本町(後の筑西市)出身。 |