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このサイトに登録されている「出身で1880年生まれ」の有名人の数:97人
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演奏家・作詞家・作曲家・ミュージシャン
1 | 近藤朔風 豊岡市 | Wikipedia |
近藤 朔風(こんどう さくふう、1880年(明治13年)2月14日 - 1915年(大正4年)1月14日)は、訳詞家。原詩に忠実な、歌い易い訳詞で、西欧歌曲への市民の耳を開いた。『泉に沿いて茂る菩提樹』・『なじかは知らねど心侘びて』・『わらべは見たり野中のばーら』などは、今も歌い継がれる。本名逸五郎。筆名には近藤あきら・羌村もあった。 |
舞台・演劇・映画・ドラマ・脚本・プロデューサー・ディレクター
2 | 野村芳亭 京都市 | Wikipedia |
野村 芳亭(のむら ほうてい、1880年11月13日 - 1934年8月23日)とは、日本の映画監督、脚本家。本名は野村 粂蔵(のむら くめぞう)。 |
ジャーナリスト
3 | 羽仁吉一 防府市 | Wikipedia |
羽仁 吉一(はに よしかず、1880年5月1日 - 1955年10月26日)は、日本のジャーナリストで、教育者。妻の羽仁もと子とともに自由学園を創立した。 | ||
4 | 菊竹六鼓 うきは市 | Wikipedia |
菊竹 六鼓(きくたけ ろっこ、男性、1880年1月25日 - 1937年7月21日)は、福岡県出身のジャーナリスト。五・一五事件に際し、福岡日日新聞の紙上で軍部批判・憲政擁護の論陣を張ったことで知られる。六鼓(六皷)[註 1]は号で、本名は淳(すなお)。兄に政治家の菊竹博之がいる。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 |
格闘技
5 | 雲竜辰五郎 つがる市 | Wikipedia |
雲竜辰五郎(うんりゅうたつごろう、1880年3月-1919年12月30日)は、追手風部屋、高砂部屋、草風部屋(京都相撲)、藤島部屋(大坂相撲)、再度追手風部屋に所属した元力士。7代千賀ノ浦。本名は野宮辰五郎。青森県つがる市出身。165cm、98kg。最高位は東前頭7枚目。 | ||
6 | 西ノ海嘉治郎 (2代) 西之表市 | Wikipedia |
西ノ海 嘉治郎(2代)(にしのうみ かじろう、1880年2月6日 – 1931年1月27日)は、鹿児島県熊毛郡種子島(現・鹿児島県西之表市)出身の元大相撲力士。第25代横綱。本名は牧瀬 休八(まきせ きゅうはち)で、後に近藤 休八(こんどう きゅうはち)。 | ||
7 | 大ノ川甚太郎 金沢市 | Wikipedia |
大ノ川 甚太郎(おおのかわ じんたろう、本名:木越 甚太郎(きごし じんたろう)、1880年10月25日 - 1917年1月20日)は、石川県河北郡(現在の金沢市)出身の明治から大正期にかけての元大相撲力士。身長168cm、体重94kg。所属は君ヶ濱部屋から出羽ノ海部屋。最高位は小結。 得意技は突っ張り、引き落とし、かっぱじき。 あだ名は「コブさん」。 | ||
8 | 大緑仁吉 福井市 | Wikipedia |
大緑仁吉(おおみどりにきち、1880年1月3日-1954年7月19日)は、現在の福井県福井市出身の大相撲力士。高砂部屋所属。8代大山。本名は帰山仁吉。179cm、94kg。最高位は東前頭3枚目。 | ||
9 | 平ノ石辰治郎 いわき市 | Wikipedia |
平ノ石辰治郎(ひらのいしたつじろう、1880年12月20日 - 1925年11月9日)は、玉垣部屋、尾車部屋、峰崎部屋に所属した元力士。12代玉垣。本名は緑川辰次郎。現在の福島県いわき市出身。167cm、94kg。最高位は西前頭4枚目。 | ||
10 | 駒ヶ嶽國力 涌谷町 | Wikipedia |
駒ヶ嶽 國力(こまがたけ くにりき、1880年12月13日 - 1914年4月11日)は、宮城県出身の元大相撲力士。本名は菊地 國力(きくち くにりき)。 | ||
11 | 加藤七左衛門 | Wikipedia |
加藤 七左衛門(かとう しちざえもん、1880年(明治13年)11月 - 1971年(昭和46年)7月)は、日本の剣道家。段位称号は範士九段。 |
作家・小説家・エッセイ・文筆・翻訳家・編集者
12 | 武林無想庵 札幌市 | Wikipedia |
武林 無想庵(たけばやし むそうあん、1880年2月23日 - 1962年3月27日)は、日本の小説家、翻訳家。本名は磐雄(いわお)、のちに盛一(せいいち)。 |
弁護士
13 | 布施辰治 | Wikipedia |
布施 辰治(ふせ たつじ、1880年(明治13年)11月13日[注 1] - 1953年(昭和28年)9月13日)は、宮城県出身の弁護士・社会運動家である。日本人として唯一の大韓民国建国勲章受章者として知られる。 | ||
明治大学出身 出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 |
建築家・建築学者・技術者
14 | ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 近江八幡市 | Wikipedia |
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日 - 1964年5月7日)は、アメリカ合衆国に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家、社会事業家、信徒伝道者。 | ||
15 | 葛野壮一郎 池田市 | Wikipedia |
葛野 壮一郎(かどの そういちろう、1880年 - 1944年1月18日)は、関西を中心に多くの建築物の設計を手がけた建築家。建築にとどまらず、音楽、絵画などにも造詣が深く、また、女子教育にも熱心に関わるなど、多方面で活躍した。 | ||
16 | 横濱勉 盛岡市 | Wikipedia |
横濱 勉(よこはま つとむ、1880年10月15日 - 1960年12月23日)は、日本の建築家。旧第九十銀行本店(国の重要文化財)などの設計で知られる。盛岡市出身。 | ||
17 | 佐野利器 | Wikipedia |
佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月1日 - 1956年(昭和31年)12月5日)は日本の建築家、構造学者。芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
18 | 見瀬辰平 志摩市 | Wikipedia |
見瀬 辰平(みせ たつへい、1880年3月16日 - 1924年8月3日)は真珠の養殖技術者、真円真珠発明者。 |
経営者・実業家
19 | 米内光政 釧路市 | Wikipedia |
米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。 | ||
20 | 植竹龍三郎 大田原市 | Wikipedia |
植竹 龍三郎(うえたけ りゅうざぶろう、1880年(明治13年)8月15日 - 1942年(昭和17年)7月20日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会)[3][4]、僧侶(僧名は龍山)[5]、実業家。帝国商業[3]、朝鮮炭鉱、塩原電車、日光登山鉄道、宇都宮信託、下野電力興業、西澤金山、中宮祠電力各社長[4][6]。海馬島漁業拓殖、植竹商業各取締役[3]。朝鮮清津商業会議所会頭[5]。 | ||
21 | 山本五郎 | Wikipedia |
山本 五郎(やまもと ごろう、1880年2月12日 - 1941年4月12日)は岐阜県揖斐郡出身の実業家。写真機械店と写真館を経営。愛友写真倶楽部代表。 | ||
22 | 伊原五郎兵衛 飯田市 | Wikipedia |
伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 - 1952年4月3日)は、長野県飯田市出身の実業家・鉄道経営者。 | ||
東京帝国大学出身 出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
23 | 桝井光次郎 宮内村 | Wikipedia |
桝井 光次郎(ますい みつじろう、1880年3月19日 - 1950年12月1日)は、実業家、種苗業者。現在日本で栽培されるイチジク(無花果)の主品種「桝井ドーフィン」創始者。広島県佐伯郡宮内村(現・廿日市市)出身。 | ||
24 | 大原孫三郎 倉敷市 | Wikipedia |
大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は日本の実業家。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
25 | 秦逸三 海田町 | Wikipedia |
秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 1944年5月25日)は、日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人の前身)共同設立者。広島県安芸郡海田町出身。 | ||
26 | 藤本幸太郎 四日市市 | Wikipedia |
藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年 - 1967年)は日本の商学者、経済学者。一橋大学名誉教授。村瀬春雄門下で、専門は海上保険論、統計学。当時の日本の保険学の最高権威とされた。日本統計学会会長、東京海上火災保険監査役等を歴任。また、日本初の商学博士としても知られる。藍綬褒章受章。 | ||
27 | 内田信也 行方氏 | Wikipedia |
内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治13年)12月6日 - 1971年(昭和46年)1月7日)は日本の実業家、政治家。 | ||
一橋大学出身 出身の一橋大学の出身者 全国の一橋大学の出身者 | ||
28 | 鮎川義介 | Wikipedia |
鮎川 義介(あゆかわ よしすけ〈通称、あいかわ ぎすけ〉[2][3] 、 1880年〈明治13年〉11月6日 – 1967年〈昭和42年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者。満州重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。 | ||
山口大学出身 出身の山口大学の出身者 全国の山口大学の出身者 |
華道・茶道
29 | 小原光雲 松江市 | Wikipedia |
小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12月19日 – 1938年(昭和13年)8月13日)は 大正-昭和時代前期の華道家。いけばな小原流二世家元。島根県松江市出身。本名は光一郎。 |
軍人
30 | 永野修身 | Wikipedia |
永野 修身(ながの おさみ、1880年(明治13年)6月15日 - 1947年(昭和22年)1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。千葉工業大学の創設者。 | ||
31 | 荒城二郎 札幌市 | Wikipedia |
荒城 二郎(あらき じろう、1880年(明治13年)11月6日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、北海道出身(本籍は東京都)の海軍軍人(中将)。兄の卓爾は陸軍少将。妹は井上達三の妻[2]で、井上成美とは縁戚関係にあった。 | ||
32 | 山室宗武 | Wikipedia |
山室 宗武(やまむろ そうぶ、1880年10月21日 - 1963年10月31日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
33 | 小磯国昭 | Wikipedia |
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。 | ||
34 | 松井七夫 | Wikipedia |
松井 七夫(まつい ななお/しちお、1880年3月15日 - 1943年2月20日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
35 | 小磯國昭 宇都宮市 | Wikipedia |
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。 | ||
36 | 今村信次郎 | Wikipedia |
今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)12月4日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
37 | 建川美次 | Wikipedia |
建川 美次(たてかわ よしつぐ、1880年(明治13年)10月3日 - 1945年(昭和20年)9月9日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等功四級。 | ||
38 | 杉山元 北九州市 | Wikipedia |
杉山 元 (すぎやま げん/はじめ、1880年(明治13年)1月1日 - 1945年(昭和20年)9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将、陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。福岡県出身。 | ||
39 | 原敢二郎 盛岡市 | Wikipedia |
原 敢二郎(はら かんじろう、1880年11月22日 - 1948年4月23日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
40 | 杉政人 | Wikipedia |
杉政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 - 昭和26年(1951年)11月19日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。岡山県高梁市出身。 | ||
41 | 安東昌喬 | Wikipedia |
安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年5月28日 - 1956年4月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
42 | 濱野英次郎 | Wikipedia |
濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年(明治13年)5月24日 - 1952年(昭和27年)3月2日)は、日本の海軍軍人。美保関事件後に連合艦隊参謀長を務めた海軍中将である。 |
官僚
43 | 佐々木秀司 | Wikipedia |
佐々木 秀司(ささき ひでじ、1880年(明治13年)11月 - 1934年(昭和9年)11月14日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選香川県知事。 | ||
44 | 三矢宮松 鶴岡市 | Wikipedia |
三矢 宮松(みつや みやまつ、1880年(明治13年)10月23日 - 1959年(昭和34年)1月10日)は、日本の内務官僚、宮内官僚。 |
公務員
45 | 森安三郎 | Wikipedia |
森 安三郎(もり やすさぶろう、1880年 - 1952年9月25日)は、日本の外交官。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
46 | 斎藤良衛 | Wikipedia |
斎藤 良衛(さいとう りょうえ、1880年(明治13年)11月15日- 1956年(昭和31年)11月4日)は、日本の外交官。外務省通商局長を最後に退官し、南満州鉄道理事、同最高顧問、外務省顧問を務める。『支那ニ於ケル外国人ノ権利義務』で法学博士(東京帝大)[2]。 | ||
47 | 松岡洋右 | Wikipedia |
松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。 | ||
明治大学出身 出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
48 | 三淵忠彦 | Wikipedia |
三淵 忠彦(みぶち ただひこ、1880年(明治13年)3月3日 - 1950年(昭和25年)7月14日)は、日本の初代最高裁判所長官である。栄典は正三位・勲二等瑞宝章。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 |
学者・教授・准教授
49 | 竹野恵真 広島市 | Wikipedia |
竹野 熊一郎(たけの ゆういちろう、1880年(明治13年)2月17日 - 1958年(昭和33年)4月19日)は、日本の教育者である。法名は恵真。崇徳学園名誉校長・学園理事を歴任。長男は広島大学名誉教授の竹野兵一郎。 | ||
50 | 大槻快尊 あま市 | Wikipedia |
大槻 快尊(おおつき かいそん、1880年4月13日 - 1936年6月2日)は日本の心理学者。かつ真言宗智山派の僧である。 | ||
51 | 大山郁夫 相生市 | Wikipedia |
大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月20日 - 1955年(昭和30年)11月30日)は、日本の政治家、政治学者。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
52 | 保井コノ | Wikipedia |
保井 コノ(やすい コノ、1880年2月16日 - 1971年3月24日)は日本の植物学者。日本女性初の理学博士。学位論文は「日本産石炭の構造の研究」。元お茶の水女子大学教授。 | ||
お茶の水女子大学出身 出身のお茶の水女子大学の出身者 全国のお茶の水女子大学の出身者 | ||
53 | 加藤繁 松江市 | Wikipedia |
加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年9月3日 - 1946年3月7日)は、明治から昭和前期にかけての東洋史学者。名前の読み方については2説あり、戸籍上は「しげし」が正しいとする説もあるが、加藤自身は「しげる」と称していた。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
54 | 二階堂トクヨ | Wikipedia |
二階堂トクヨ(にかいどう トクヨ、1880年12月5日 - 1941年7月17日)は、宮城県大崎市(旧三本木町)出身の教育者。日本女子体育大学創設者。 | ||
お茶の水女子大学出身 出身のお茶の水女子大学の出身者 全国のお茶の水女子大学の出身者 | ||
55 | 熊谷岱蔵 塩尻市 | Wikipedia |
熊谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月19日 - 1962年(昭和37年)2月19日)は、内科医学者、医学博士。東北帝国大学医科大学(後の東北大学医学部)教授、総長。附属抗酸菌病研究所初代所長。興亜工業大学顧問を兼任。従二位、勲一等旭日大綬章。 | ||
56 | 神津俶祐 | Wikipedia |
神津 俶祐(こうづ しゅくすけ、1880年6月5日 - 1955年2月11日)は日本の岩石学者、鉱物学者。東北大学教授。 | ||
57 | 大多和與四郎 | Wikipedia |
大多和 與四郎(おおたわ よしろう、1880年(明治13年) - 1938年(昭和13年))は、伝染性紅斑(通称:リンゴ病)を日本で初めて発見したとして知られる千葉県白子町(旧 関村)の医学者。 | ||
58 | 布施現之助 小樽市 | Wikipedia |
布施 現之助(ふせ げんのすけ、1880年1月24日 - 1946年12月12日)は、解剖学者。医学博士。専攻は神経解剖学。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
59 | 大島正徳 海老名市 | Wikipedia |
大島 正徳(おおしま まさのり、1880年11月11日 - 1947年4月21日)は、日本の哲学者、教育家。 | ||
東京帝国大学出身 出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 |
研究者・研究家・発明家
60 | 尾佐竹猛 金沢市 | Wikipedia |
尾佐竹 猛(おさたけ たけき、1880年1月20日 - 1946年10月1日)は、日本の法学者(専門は法制史)、明治文化研究者。学位は法学博士。大審院判事。号は雨花子。 | ||
明治大学出身 出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 |
画家・写真家・書道家・彫刻家・陶芸家・漆芸家・工芸家
61 | 建畠大夢 有田川町 | Wikipedia |
建畠 大夢(たてはた たいむ、1880年2月29日 - 1942年3月22日)は、彫刻家、帝国芸術院会員。本名は彌一郎。 | ||
62 | 今村紫紅 横浜市 | Wikipedia |
今村 紫紅(いまむら しこう、 1880年(明治13年)12月16日 - 1916年(大正5年)2月28日)は、神奈川県横浜市出身の日本画家。本名は寿三郎。35歳(数え年で37歳)で夭折したが、大胆で独創的な作品は画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家に大きな影響を与えた。主要作品『近江八景』連作 (1912年、東京国立博物館、重文))、『熱国の巻』 (1914年、東京国立博物館、重文)など。 | ||
63 | 熊谷守一 中津川市 | Wikipedia |
熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年(明治13年)4月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。 | ||
東京芸術大学出身 出身の東京芸術大学の出身者 全国の東京芸術大学の出身者 |
政治家・議員・首長
64 | 深沢友彦 熊本市 | Wikipedia |
深沢 友彦(ふかざわ ともひこ、1880年(明治13年)7月20日 - 1970年(昭和45年)8月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。第10代八王子市長を務めた。 | ||
65 | 菊竹六皷 うきは市 | Wikipedia |
菊竹 六鼓(きくたけ ろっこ、男性、1880年1月25日 - 1937年7月21日)は、福岡県出身のジャーナリスト。五・一五事件に際し、福岡日日新聞の紙上で軍部批判・憲政擁護の論陣を張ったことで知られる。六鼓(六皷)[註 1]は号で、本名は淳(すなお)。兄に政治家の菊竹博之がいる。 | ||
66 | 苫米地義三 旧藤坂村 | Wikipedia |
苫米地 義三(とまべち ぎぞう、明治13年(1880年)12月25日 - 昭和34年(1959年)6月29日)は日本の政治家。衆議院議員(1946年-1952年、当選3回)、参議院議員(1953年-1959年、当選1回)。青森県上北郡藤坂村出身。(三本木市を経て現十和田市)関東管領上杉憲政の末裔、山内上杉流苫米地家の一族で古くは中臣鎌足まで遡ることができる日本の名門家系。旧制札幌中学校、東京高等工業学校応用化学科卒(明治36年)。日本進歩党、民主党、国民民主党(党首)、改進党、日本民主党、自由民主党に所属。 | ||
東京工業大学出身 出身の東京工業大学の出身者 全国の東京工業大学の出身者 | ||
67 | 上田万平 天草 | Wikipedia |
上田 万平(うえだ まんぺい、1880年(明治13年)10月4日 - 1935年(昭和10年)7月8日[2])は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。 | ||
68 | 堤清六 函館市 | Wikipedia |
堤 清六(つつみ せいろく、1880年2月15日 - 1931年9月12日)は、日本の実業家。日魯漁業株式会社(現株式会社ニチロ)の創業者。衆議院議員・新潟県知事・参議院議員を歴任した亘四郎は実弟。 | ||
69 | 櫻内幸雄 安来市 | Wikipedia |
櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年(明治13年)8月14日 - 1947年(昭和22年)10月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任。 | ||
70 | 米内光政 盛岡市 | Wikipedia |
米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。第23代連合艦隊司令長官。第39-41、49-52代海軍大臣。第37代内閣総理大臣。 | ||
71 | 宮脇長吉 | Wikipedia |
宮脇 長吉(みやわき ちょうきち、1880年2月5日 - 1953年2月16日)は、日本の陸軍軍人、政治家、実業家。最終階級は陸軍大佐。衆議院議員。紀行作家宮脇俊三の父。 | ||
72 | 桜井兵五郎 能登町 | Wikipedia |
櫻井 兵五郎(桜井 兵五郎、さくらい ひょうごろう、1880年(明治13年)8月8日 - 1951年(昭和26年)2月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、国務大臣、石川県会議員。幼名・正清。 | ||
73 | 山崎達之輔 大川市 | Wikipedia |
山崎 達之輔(やまざき たつのすけ、1880年(明治13年)6月19日 - 1948年(昭和23年)3月15日)は、日本の官僚、政治家。1924年(大正13年)以来衆議院総選挙で連続7回当選した。 | ||
京都大学出身 出身の京都大学の出身者 全国の京都大学の出身者 | ||
74 | 白男川譲介 | Wikipedia |
白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ[2] じょうすけ、1880年(明治13年)1月[3] - 1951年(昭和26年))は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事、鹿児島市長。旧姓・池田。 | ||
75 | 原田維織 | Wikipedia |
原田 維織(はらだ いおり、1880年(明治13年)8月 - 1953年(昭和28年)11月14日[2])は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 | ||
76 | 森丘正唯 黒部市 | Wikipedia |
森丘 正唯(もりおか まさただ、1880年3月23日 - 1967年9月10日)は、日本の政治家。農村指導者。 | ||
77 | 小磯國昭 新庄市 | Wikipedia |
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。山形県士族 | ||
78 | 本城藤造 鳥取市 | Wikipedia |
本城 藤造(ほんじょう とうぞう、明治13年(1880年) - 昭和7年(1932年))は、日本の政治家。第34代鳥取県議会議長。元鳥取県気高郡大和村長。農業。 | ||
79 | 足立弥四郎 幸田町 | Wikipedia |
足立 弥四郎(あだちやしろう、1880年(明治13年)11月3日 – 没年不詳)は、愛知県額田郡幸田村(現・幸田町)出身の政治家・教育者。海部郡長(1924年-1926年)、津島町長(1926年-1930年)、半田町長(1930年-1937年)、第2代半田市長(1946年)。 | ||
80 | 八角三郎 盛岡市 | Wikipedia |
八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年(明治13年)12月19日 - 1965年(昭和40年)1月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将、衆議院議員。 | ||
海軍兵学校出身 出身の海軍兵学校の出身者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
81 | 川崎克 伊賀市 | Wikipedia |
川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)、1880年(明治13年)12月28日 - 1949年(昭和24年)2月3日)は、日本の政治家。長男に経済学博士の川崎勉、次男に元厚生大臣の川崎秀二がいる。元厚生労働大臣の川崎二郎は孫にあたる。 | ||
82 | 米内光政 渋谷区 | Wikipedia |
米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。 |
評論家
83 | 丸山幹治 長野市 | Wikipedia |
丸山 幹治(まるやまかんじ、男性、明治13年(1880年)5月2日 - 昭和30年(1955年)8月16日) は、ジャーナリスト・政治評論家。 号・侃堂。 | ||
早稲田大学出身 出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 |
宗教家・思想家・運動家
84 | W.M.ヴォーリズ 近江八幡市 | Wikipedia |
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日 - 1964年5月7日)は、アメリカ合衆国に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家。 | ||
85 | 山川均 倉敷市 | Wikipedia |
山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、在野の経済学者で、社会主義者・社会運動家・思想家・評論家。労農派マルクス主義の指導的理論家であった。 | ||
同志社大学出身 出身の同志社大学の出身者 全国の同志社大学の出身者 | ||
86 | 永松幾五郎 南関町 | Wikipedia |
永松 幾五郎(ながまつ いくごろう、1880年(明治13年)7月27日 - 1961年(昭和36年)8月24日)は、日本ナザレン教会の牧師である。 | ||
87 | 澤木興道 津市 | Wikipedia |
澤木 興道(さわき こうどう、道号:祖門、1880年6月16日 - 1965年12月21日)は、昭和を代表する日本の曹洞宗の僧侶である。 |
俳人・歌人・詩人
88 | 伊藤平治郎 四日市市 | Wikipedia |
伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年(明治13年)5月18日 - 1941年(昭和16年)1月三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家・実業家・歌人。 | ||
89 | 津田青楓 京都市 | Wikipedia |
津田 青楓(つだ せいふう、1880年9月13日 - 1978年8月31日)は京都府出身の画家、書家、随筆家、歌人。良寛研究家としても知られる。本名、津田亀治郎。旧姓、西川。津田は母方の姓。最初の妻の山脇敏子も洋画家である。 | ||
90 | 森山汀川 富士見町 | Wikipedia |
森山 汀川(もりやま ていせん、1880年9月30日 - 1946年9月17日)は、日本の歌人。本名:森山 藤一。 | ||
91 | 吉江喬松 塩尻市 | Wikipedia |
吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。 | ||
92 | 東季彦 十津川村 | Wikipedia |
東 季彦(あずま すえひこ、1880年1月 - 1979年7月)は、日本の法学者、出版事業家。旧姓乾(いぬい)。商法の権威として知られた。佐佐木信綱門下の歌人でもある。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 |
その他の職業
93 | 北沢種一 諏訪市 | Wikipedia |
北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年(明治13年)1月13日 - 1931年(昭和6年)12月9日)は、日本の教育者。 | ||
94 | 千足富郷 西宮市 | Wikipedia |
千足 富郷(ちあし とみさと、1880年(明治13年)3月24日あるいは9月 - 没年不明)は、日本の商人(材木商)[3][4][5]、兵庫県多額納税者[4][5]。 | ||
95 | 三上アイ 川本町 | Wikipedia |
三上 アイ(みかみ あい、1880年3月 - 1970年6月1日)は、日本の教育者である。学校法人江の川学園創立者。 | ||
96 | 持安吟治 久米南町 | Wikipedia |
持安 吟治(もちやす ぎんじ、1880年5月2日 - 1926年8月18日)は、岡山県の名望家、久米郡役所郡視等を務めていた。 | ||
97 | 藤蔭静樹 新潟市 | Wikipedia |
藤蔭 静樹(ふじかげ せいじゅ、1880年(明治13年)10月13日 - 1966年(昭和41年)1月2日)は、日本舞踊家。藤蔭流(ふじかげりゅう)を創始し、新舞踊を開拓した。前名に藤蔭静枝、藤間静枝、新巴屋八重次(しんともえや やえじ)、内田静江(うちだ しずえ)など。本名は内田 八重(うちだ やい)。一時期永井荷風の妻だった。 |