このサイトに登録されている有名人の数:70,856人
このサイトに登録されている「出身で1860年生まれ」の有名人の数:41人
スポンサーリンク
宝塚・女優・俳優・声優・ナレーター・歌舞伎・能楽・狂言
1 | 中村鴈治郎(初代) 大阪市 | Wikipedia |
初代 中村 鴈治郎(しょだい なかむら がんじろう、安政7年3月6日(1860年3月27日) - 1935年(昭和10年)2月1日)は明治・大正の上方歌舞伎役者。屋号は成駒屋。定紋はイ菱。俳名に扇若・亀鶴、雅号に玩辞楼、浄瑠璃名に吉田玉太郎。本名は林 玉太郎(はやし たまたろう)。 |
演奏家・作詞家・作曲家・ミュージシャン
2 | 上原方立 八代市 | Wikipedia |
上原 方立(うえはら ほうりゅう、1860年7月23日(万延元年6月6日) - 1884年(明治17年)10月14日)は熊本バンドの一人である。 |
格闘技
3 | 嘉納治五郎 神戸市 | Wikipedia |
嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月10日(万延元年10月28日) - 1938年(昭和13年)5月4日)は、日本の柔道家、教育者である。兵庫県平民。 | ||
二松學舍大学出身 出身の二松學舍大学の出身者 全国の二松學舍大学の出身者 | ||
4 | 嘉納治五郎 我孫子市 | Wikipedia |
嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月10日〈万延元年10月28日〉 - 1938年〈昭和13年〉5月4日)は、日本の柔道家、教育者である。兵庫県出身。 |
経営者・実業家
5 | 辰馬半蔵 西宮市 | Wikipedia |
辰馬 半蔵(たつうま はんぞう、1860年1月22日(安政6年12月30日) - 没年不明)は、日本の酒造家、実業家、兵庫県多額納税者[3]。武庫酒造、大阪林業各取締役。攝陽酒造監査役。族籍は兵庫県平民[4]。 | ||
6 | 大橋澤三郎 倉敷市 | Wikipedia |
大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年) - 1889年(明治22年)10月30日)は実業家。岡山県出身。 | ||
7 | 木村利太郎 倉敷市 | Wikipedia |
木村 利太郎(きむら りたろう/としたろう、1860年(万延元年) - 1914年(大正3年)6月24日)は実業家。岡山県出身。 | ||
8 | 日比翁助 久留米市 | Wikipedia |
日比 翁助(ひび おうすけ、1860年8月12日(万延元年6月26日) - 1931年(昭和6年)2月22日)は、明治時代から昭和前期にかけての経営者。三越百貨店を創業し三越の経営改革を進め、日本初の百貨店をつくった人物。号は美勲。 | ||
慶應義塾大学出身 出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
9 | 尾澤福太郎 岡谷市 | Wikipedia |
尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう、1860年3月4日〈万延元年2月12日〉 - 1937年9月17日)は、日本の実業家。姓の「澤」は「沢」の旧字体、名の「福」は「福」の異字体、「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう)、尾澤 福太郎(おざわ ふくたろう)、尾沢 福太郎(おざわ ふくたろう)とも表記される。 |
医師・看護師
10 | 田代正 | Wikipedia |
田代 正(たしろ ただし、1860年2月16日(安政7年1月25日) - 1918年(大正7年)1月30日)は、日本の明治期から大正期における外科医。長崎医学専門学校長、長崎県医師会長も勤め同県の医術発展と医療普及に尽くした。越前国出身。 |
軍人
11 | 斎藤孝至 | Wikipedia |
斎藤 孝至(さいとう こうし、1860年4月18日(万延元年3月28日) - 1927年10月30日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
12 | 上崎辰次郎 | Wikipedia |
上崎 辰次郎(こうざき たつじろう、1860年(万延元年) - 1895年 (明治28年)3月14日)は、日本の海軍軍人。日清戦争においてその責任感から自決した上等兵曹(当時は准士官)である。 | ||
13 | 根津一 山梨市 | Wikipedia |
根津 一(ねづ はじめ、1860年6月20日(万延元年5月2日) - 1927年2月18日)は、日本の教育者・陸軍軍人。陸軍少佐。幼名は伝次郎、のちに一、山洲と号した。軍人として日清戦争に従軍する一方、荒尾精の盟友として上海の日清貿易研究所の運営にあたり、また上海の東亜同文書院の初代・第3代院長として日中間で活動する人材の育成につとめた。 | ||
14 | 山内万寿治 | Wikipedia |
山内 万寿治(やまのうち ますじ、1860年4月19日(万延元年3月29日) - 1919年9月18日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。男爵。 | ||
15 | 野口坤之 | Wikipedia |
野口 坤之(のぐち こんの/のぐち こんし、1860年6月14日(万延元年4月25日) - 1919年(大正8年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争における第四師団参謀長である。最終階級は陸軍中将。 |
公務員
16 | 馬場愿治 | Wikipedia |
馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月24日) - 1940年(昭和15年)11月13日)は、日本の裁判官。大審院部長で退官後、中央大学学長を務めた法学博士である。 | ||
17 | 田部芳 彦根市 | Wikipedia |
田部 芳(たなべ かおる、1860年11月1日(万延元年9月19日) - 1936年(昭和11年)11月18日)は明治〜昭和期の法曹家、大審院検事・大審院部長判事等を歴任し商法起草委員として新商法成立に尽くした。滋賀県出身者として司法省法学校同期の河村譲三郎と共に最初の法学博士(博士登録番号22番)。 |
学者・教授・准教授
18 | 穂積八束 | Wikipedia |
穂積 八束 (ほづみ やつか、1860年3月20日(安政7年2月28日) - 1912年10月5日)は、日本の法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。 | ||
東京大学出身 出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
19 | 三宅米吉 和歌山市 | Wikipedia |
三宅 米吉(みやけ よねきち、1860年7月1日(万延元年5月13日) - 1929年(昭和4年)11月11日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の歴史学者、教育者。号は昭軒。 | ||
20 | 梅謙次郎 松江市 | Wikipedia |
梅 謙次郎(うめ けんじろう、1860年7月24日(万延元年6月7日) - 1910年(明治43年)8月26日)は、日本の法学者、教育者。法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、東京帝国大学法科大学長、内閣法制局長官、文部省総務長官等を歴任。法典調査会民法起草委員・商法起草委員。和仏法律学校(現法政大学)学監・校長、法政大学初代総理。勲一等瑞宝章受章。 | ||
東京外国語大学出身 出身の東京外国語大学の出身者 全国の東京外国語大学の出身者 | ||
21 | 宮部金吾 札幌市 | Wikipedia |
宮部 金吾(みやべ きんご、1860年4月27日(万延元年閏3月7日) - 1951年(昭和26年)3月16日)は、日本の植物学者。北海道札幌市名誉市民。札幌農学校第二期卒業生(現在の北海道大学)。 |
画家・写真家・書道家・彫刻家・陶芸家
22 | 大橋万峰 大垣市 | Wikipedia |
大橋 万峰(おおはし まんぽう、1860年(安政7年) - 1943年(昭和18年)は、美濃国出身の日本画家である。本名は鎌三郎。大橋翠石の兄。 |
政治家・議員・首長
23 | 有本国蔵 舞鶴市 | Wikipedia |
有本 国蔵(ありもと くにぞう、有本 國蔵とも。1860年 - 1944年1月10日)は、丹後国加佐郡舞鶴(現・京都府舞鶴市)出身の実業家・篤志家・政治家。1908年から1912年まで衆議院議員を1期務めた。1927年に紺綬褒章を受章し、1929年に緑綬褒章を受章。 | ||
24 | 工藤卓爾 | Wikipedia |
工藤 卓爾(くどう たくじ、万延元年3月25日(1860年4月15日) - 大正14年(1925年)7月20日)は、青森市初代市長。港湾、水道、中央停車場(現:青森駅)など青森市の振興に取り組んだ政治家として知られる。衆議院選挙には2度当選。政財界の巨頭でもあった。合浦公園には彼を偲んで「工藤卓爾君彰徳碑」が建てられている。孫には第26~29代青森市長の工藤正がいる。 | ||
明治大学出身 出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
25 | 矢島浦太郎 | Wikipedia |
矢島 浦太郎(やじま うらたろう、1860年3月4日(安政7年2月12日) - 1917年(大正6年)10月17日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員(5期、立憲同志会)。 | ||
法政大学出身 出身の法政大学の出身者 全国の法政大学の出身者 | ||
26 | 五代上野松次郎 宇都宮市 | Wikipedia |
5代上野 松次郎(うえの まつじろう、1860年3月31日(万延元年3月10日) - 1939年(昭和14年)11月27日[3])は、日本の商人(油屋、肥料商)[4]、政治家・衆議院議員(立憲政友会)[5]、栃木県多額納税者[6][7]、資産家[8]、実業家。宇都宮商工会議所初代会頭。宇都宮銀行、下野中央銀行各頭取。下野製紙、宇都宮瓦斯、上野松次郎商店各代表取締役。私立宇都宮幼稚園長[9]。前名・豊次郎[9]。旧姓・鵜月。族籍は栃木県平民[10][11]。 | ||
27 | 斉藤珪次 羽生市 | Wikipedia |
斎藤 珪次(さいとう けいじ、1860年4月15日(万延元年3月25日) - 1928年(昭和3年)3月21日)は、明治期の政治家、衆議院議員(8期)、ジャーナリスト、勲四等旭日小綬章。 | ||
慶應義塾大学出身 出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
28 | 市島謙吉 阿賀野市 | Wikipedia |
市島 謙吉(いちしま けんきち、安政7年2月17日(1860年3月9日) - 昭和19年(1944年)4月21日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(3期)、文化事業家、随筆家、早稲田大学初代図書館長。号は春城。 | ||
29 | 松岡鼎 福崎町 | Wikipedia |
松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年10月3日) - 1934年(昭和9年)1月28日)は、松岡5兄弟(柳田國男、井上通泰、松岡静雄、松岡映丘)の長男で医師。父は儒者松岡操(約斉)。 | ||
30 | 高田早苗 川越市 | Wikipedia |
高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月14日) - 1938年(昭和13年)12月3日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の政治家、政治学者、教育者、文芸批評家。法学博士。号は半峰。 | ||
31 | 大橋房太郎 大阪市 | Wikipedia |
大橋房太郎(おおはし ふさたろう、1860年 - 1935年)は、大阪府出身の政治家。大阪府を流れる淀川の治水に一生を捧げ、治水翁と呼ばれた。 | ||
32 | 白崎市米 高浜町 | Wikipedia |
白崎 市米(しらさき いちべい、1860年11月(万延元年10月) - 1936年(昭和11年))は、日本の政治家・福井県大飯郡和田村長、篤農家[3]、実業家。高浜銀行頭取。前名・市太郎。族籍は福井県平民。 |
評論家
33 | 三宅雪嶺 | Wikipedia |
三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5月19日) - 1945年(昭和20年)11月26日)は、日本の哲学者、評論家。加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。本名は雄二郎。 |
宗教家・思想家・運動家
34 | 釈宗演 高浜町 | Wikipedia |
釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日(1860年1月10日) - 大正8年(1919年)11月1日)は、明治・大正期の臨済宗の僧。若狭国(現・福井県)大飯郡高浜村(現在の高浜町)の生まれ。出家前は一瀬常次郎。号は洪嶽、楞迦窟、不可往。 | ||
35 | 丘宗潭 | Wikipedia |
丘 宗潭(おか そうたん、1860年9月9日 - 1921年8月19日)は、尾張国出身の日本の曹洞宗の僧侶。安泰寺初代住職。 | ||
36 | 金成太郎 登別市 | Wikipedia |
金成 太郎(かんなり たろう、1860年(万延元年) - 1895年(明治28年))は、アイヌで最初にプロテスタントの洗礼を受けた人物で、アイヌ最初の伝道者である。金成マツの従兄である。 |
俳人・歌人・詩人・歌人
37 | 岡野知十 様似町 | Wikipedia |
岡野 知十(おかの ちじゅう、安政7年2月19日(1860年3月11日) - 昭和7年(1932年)8月13日)は、俳人。本名は、岡野 敬胤。通称は正之助、別号は正味。旧姓は木川。 |
その他の職業
38 | 阿部正功 白河市 | Wikipedia |
阿部 正功(あべ まさこと、安政7年1月23日(1860年2月14日) - 大正14年(1925年)9月11日)は、日本の武士、大名、華族。陸奥棚倉藩阿部家の第2代藩主。白河藩主阿部正耆の次男。正室は徳大寺公純の娘。子に要子(阿部正寛室)、直子(阿部正直室)。忠秋系阿部家17代。幼名は光之助、基之助。官位は棚倉藩知事従二位子爵。 | ||
39 | 本因坊丈和 本庄市 | Wikipedia |
本因坊 丈和(ほんいんぼう じょうわ、天明7年(1787年) - 弘化4年10月10日(1847年11月17日))は、江戸時代の棋士。十二世本因坊、名人碁所。法名は日竟。本因坊元丈門下。元の姓は戸谷、後に葛野(かどの)。 | ||
40 | 石川光親 室蘭市 | Wikipedia |
石川 光親(いしかわ みつちか、安政6年(1860年) - 大正7年(1918年))は、陸奥仙台藩石川氏の末裔。室蘭市の開拓に大きく貢献し、藍綬褒章を授勲した。 | ||
41 | 大山捨松 渋谷区 | Wikipedia |
大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。大山巌の妻。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。愛国婦人会理事。赤十字篤志看護会理事。 |