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経営者・実業家
1 | 遠藤敬止 | Wikipedia |
遠藤 敬止(えんどう けいし、嘉永4年(1851年) - 明治37年(1904年))は、幕末期の武士(会津藩士)、明治期の大蔵官僚、七十七銀行第二代・四代頭取、仙台商工会議所初代会頭。 | ||
慶應義塾大学出身 出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
2 | 矢野龍渓 佐伯市 | Wikipedia |
矢野 龍渓(やの りゅうけい、1851年1月2日(嘉永3年12月1日) - 1931年(昭和6年)6月18日)は、幕末の佐伯藩士、明治時代の官吏、著作家、ジャーナリスト、政治家。太政官大書記官兼統計院幹事、『郵便報知新聞』社長、宮内省式部官、清国駐箚特命全権公使、大阪毎日新聞社副社長を歴任。 | ||
3 | 中井三郎兵衛(4代) 京都市 | Wikipedia |
中井 三郎兵衛 (4代)(なかい さぶろべえ、嘉永4年(1851年)12月 - 昭和7年(1932年)3月27日)は、明治から昭和時代前期の実業家。田中源太郎、内貴清兵衛らとともに、京都四天王と呼ばれた。中井家は、三井家別家の家系。 | ||
4 | 岩崎弥之助 | Wikipedia |
岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4年1月8日) - 1908年(明治41年)3月25日)は、日本の実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。 | ||
5 | 山辺丈夫 津和野町 | Wikipedia |
山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日(嘉永4年12月8日) - 1920年(大正9年)5月14日)は、明治期の実業家、紡績技師、津和野藩士。東洋紡創業者。従五位。 | ||
慶應義塾大学出身 出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
6 | 今村勤三 安堵町 | Wikipedia |
今村 勤三(いまむら きんぞう、1851年3月1日 - 1924年10月26日)は、実業家・政治家。奈良県安堵町生まれ。銀行家・今村幸男、大阪大学第5代総長・今村荒男、大日本紡績常務取締役・今村奇男の父。天誅組の立役者・今村文吾の甥。 |
医師・看護師
7 | 井田武雄 境港市 | Wikipedia |
井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年(1851年)11月 - 昭和8年(1933年))は、日本の医師、実業家、政治運動家。号は陸舟。鳥取県西伯郡中浜村(現在の境港市)出身。四谷病院、後楽堂医院長。東京府平民。 | ||
8 | 荻野吟子 熊谷市 | Wikipedia |
荻野 吟子(おぎの ぎんこ(本名:荻野ぎん)、1851年4月4日(嘉永4年3月3日) - 1913年(大正2年)6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である。女性運動家としても知られる。なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していた。西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネ(1827年 - 1903年)がいる。 | ||
お茶の水女子大学出身 出身のお茶の水女子大学の出身者 全国のお茶の水女子大学の出身者 |
軍人
9 | 鹿野勇之進 | Wikipedia |
鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4年9月14日) - 1914年4月7日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。貴族院議員。 | ||
10 | 平佐良蔵 | Wikipedia |
平佐 良蔵(ひらさ りょうぞう、1851年(嘉永4年7月) - 1912年(明治45年)7月5日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 | ||
11 | 真鍋斌 | Wikipedia |
真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4年2月5日) - 1918年12月14日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・熊槌。 | ||
12 | 山中信儀 | Wikipedia |
山中 信儀(やまなか のぶよし、1851年2月15日(嘉永4年1月15日) - 1926年(大正15年)4月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。男爵。 | ||
13 | 渡辺章 | Wikipedia |
渡辺 章(わたなべ しょう、1851年3月31日(嘉永4年2月29日) - 1934年(昭和9年)5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。男爵。 |
官僚
14 | 木下広次 坪井 | Wikipedia |
木下廣次(きのした ひろじ、1851年2月25日(嘉永4年1月25日) - 1910年(明治43年)8月22日)は、明治時代の教育行政家(文部官僚)・教育者。 | ||
15 | 伊沢修二 | Wikipedia |
伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年6月30日(嘉永4年6月2日) - 1917年(大正6年)5月3日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者である。号は楽石。 |
公務員
16 | 大坪弘道 智頭町 | Wikipedia |
大坪 弘道(おおつぼ ひろみち)は、日本の元検察官。法務省保護局総務課長、大阪地方検察庁特別捜査部長、京都地方検察庁次席検事等を歴任していたが、大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件において、大阪地検特捜部当時の部下であった元副部長・佐賀元明及び元検事・前田恒彦とともに逮捕・起訴され、1審、2審ともに有罪判決を言い渡された。また、法務大臣からは懲戒免職の処分を受けた。 | ||
中央大学出身 出身の中央大学の出身者 全国の中央大学の出身者 |
学者・教授・准教授
17 | 岸本辰雄 鳥取市 | Wikipedia |
岸本辰雄(きしもと たつお、1851年11月13日(嘉永4年10月19日) - 1912年(明治45年)4月4日)は日本の法学者。明治大学の創設者。 | ||
18 | 那珂通世 | Wikipedia |
那珂 通世(なか みちよ、嘉永4年1月6日(1851年2月6日) - 明治41年(1908年)3月2日)は、南部藩出身の明治時代の歴史学者、文学博士。東洋史の概念を初めて生んだといわれる。 | ||
慶應義塾大学出身 出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 |
政治家・議員・首長
19 | 岩男三郎 | Wikipedia |
岩男 三郎(いわお さぶろう、1851年6月8日(嘉永4年5月9日) - 1909年(明治42年)7月15日)は、幕末期の肥後熊本藩士、維新後は官吏、各県知事などを歴任した。 | ||
慶應義塾大学出身 出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
20 | 寺田祐之 飯山市 | Wikipedia |
寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年12月26日) - 1917年(大正6年)3月14日)は、日本の内務官僚。鳥取・岡山・宮城・広島の各県知事を歴任した。特に広島県知事在任中、県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設立に関わったことで知られる。 | ||
21 | 安楽兼道 | Wikipedia |
安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日(嘉永3年12月12日) - 1932年4月12日)は、明治から大正期の警察官僚、政治家。県知事、貴族院議員、警視総監、錦鶏間祗候。 | ||
22 | 柏田盛文 | Wikipedia |
柏田 盛文(かしわだ もりふみ、1851年4月23日(嘉永4年3月22日) - 1910年(明治43年)6月20日)は、明治期の政治家、官僚、ジャーナリスト。衆議院議員、文部次官、旧制第四高等学校校長、千葉県知事、茨城県知事、新潟県知事。 | ||
慶應義塾大学出身 出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
23 | 佐藤暢 | Wikipedia |
佐藤 暢(さとう ちょう / しん、1851年1月(嘉永3年12月)- 1910年(明治43年)9月7日)は、日本の内務官僚、実業家。官選栃木県知事。 | ||
24 | 瀧川辨三 下関市 | Wikipedia |
瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(1851年12月13日) - 大正14年(1925年)1月12日)は、日本の実業家、政治家で神戸市実業界の重鎮。 | ||
25 | 根本正 那珂市 | Wikipedia |
根本 正(ねもと しょう、1851年10月25日(嘉永4年10月1日) - 1933年(昭和8年)1月5日)は、幕末の水戸藩士、明治・大正時代の衆議院議員。帝国教育会東京府会員、殖民協会幹事などを歴任し、1898年(明治31年)第5回総選挙以降、連続当選10回。未成年者喫煙禁止法・未成年者飲酒禁止法を提唱し、成立させた。 |
宗教家・思想家・運動家
26 | 宮崎八郎 荒尾市 | Wikipedia |
宮崎 八郎(みやざき はちろう、1851年(嘉永4年)- 1877年(明治10年)4月6日)は熊本県出身の自由民権運動家。中江兆民の仏学塾に学び、「九州のルソー」と呼ばれた。西南戦争で西郷隆盛を支援し、26歳にして志半ばで戦死した。 |
その他の職業
27 | 片桐助作 八雲町 | Wikipedia |
片桐 助作(かたぎり すけさく、1851年6月26日-1918年2月11日)は、尾張藩士、尾張徳川家の家職。同家第14代当主・徳川慶勝に見出されて、同家の北海道開拓地を選定、1884年から現地・八雲村に赴任して開拓の指導にあたったことで知られる。1891年に名古屋に戻り、以後も同家事務所の中心人物として、世襲財産・所有地の管理や名古屋大曽根の徳川義礼邸の建設を行い、退職後は同家の御相談人として、什宝の整理に携わった。 | ||
28 | 佐藤志津 佐倉市 | Wikipedia |
佐藤 志津(さとう しづ、1851年(嘉永4年) - 1919年(大正8年)3月17日)は、私立女子美術学校(現女子美術大学)第2代校長。 | ||
29 | 田中尚 鳥取市 | Wikipedia |
田中 尚(たなか ひさし、嘉永4年(1851年) - 大正6年(1917年))は、日本の教育者。 |