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宝塚・女優・俳優・声優・ナレーター・歌舞伎・能楽・狂言
1 | 岡村文子 | Wikipedia |
岡村 文子(おかむら ふみこ、1898年10月24日 - 1976年8月15日)は長野県出身の女優。 | ||
2 | 松井須磨子 長野市 | Wikipedia |
松井 須磨子(まつい すまこ、1886年(明治19年)3月8日(戸籍上:11月1日) - 1919年(大正8年)1月5日)は、日本の新劇女優。本名、小林正子(こばやしまさこ)。 |
演奏家・作詞家・作曲家・ミュージシャン
3 | 草川信 | Wikipedia |
草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948年9月20日)は作曲家。 | ||
4 | 中山晋平 中野市 | Wikipedia |
中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月22日 - 1952年(昭和27年)12月30日)は、日本の作曲家。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した。作品は多岐にわたり、学校の校歌・社歌等などを含め中山の作品と判明しているだけで1770曲ある。 | ||
5 | 高野辰之 | Wikipedia |
高野 辰之(たかの たつゆき、1876年(明治9年)4月13日 - 1947年(昭和22年)1月25日)は、日本の国文学者、作詞家。号は斑山(はんざん)。 |
舞台・演劇・映画・ドラマ・脚本・プロデューサー・ディレクター
6 | 池田義信 | Wikipedia |
池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 1973年9月1日)は、日本の映画監督、脚本家である[2]。本名・旧名池田 義臣(いけだ よしおみ、いけだ ぎしん)。映画製作者連合会事務局長、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)副委員長を歴任[2]。 | ||
7 | 亀原嘉明 高山村 | Wikipedia |
亀原 嘉明(かめはら よしあき、1891年-1933年)は、日本の美術監督、映画プロデューサーである。日本における映画美術の先駆者として知られる。 | ||
8 | 河竹繁俊 飯田市 | Wikipedia |
河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年6月9日 - 1967年11月15日)は、日本の演劇学者。文学博士。旧姓は市村(いちむら)。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 |
落語家
9 | 三遊亭鬼丸 上田市 | Wikipedia |
三遊亭 鬼丸(さんゆうてい おにまる)は落語の名跡。当代は180年ぶりの名跡復活とのことだが実際は不明。 |
ジャーナリスト
10 | 両角政人 | Wikipedia |
両角 政人(もろずみ まさと[2]、まさんど[3]、1899年1月25日 - 1988年12月30日)は、日本の新聞記者、スケート指導者[2]。 | ||
11 | 松岡好一 | Wikipedia |
松岡 好一(まつおか こういち、1865年 - 1921年6月29日)は、日本のジャーナリスト。 |
格闘技
12 | 信州山由金 | Wikipedia |
信州山 由金(しんしゅうざん よしかね、1918年11月1日-1976年8月20日)は、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の同県諏訪市岡村)出身で、1940年代に活躍した大相撲力士である。現役時代は、高砂部屋に所属した。本名は河西 由金(かわにし よしかね)。 | ||
13 | 槍ヶ嶽峯五郎 長野市 | Wikipedia |
槍ヶ嶽峯五郎(やりがたけみねごろう、1896年12月28日-1926年5月30日)は、熊ヶ谷部屋、出羽海部屋に所属した元力士。本名は吉村親太郎。長野県更級郡西寺尾村(現長野市)出身。173cm、86kg。最高位は東前頭9枚目。 | ||
14 | 二十一代目木村庄之助 長野市 | Wikipedia |
21代木村庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ、1889年4月1日 - 1970年11月25日)は、大相撲の立行司。所属部屋:伊勢ノ海→井筒→双葉山道場・時津風。風貌から「蒋介石庄之助」と通称されている。 | ||
15 | 木村庄之助 (21代) 長野市 | Wikipedia |
21代木村庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ、1889年4月1日 - 1970年11月25日)は、大相撲の立行司。所属部屋:伊勢ノ海→井筒→双葉山道場・時津風。風貌から「蒋介石庄之助」と通称されている。 | ||
16 | 鷲ヶ濱音右エ門 長野市 | Wikipedia |
鷲ヶ濱 音右エ門(わしがはま おとえもん、1838年3月10日〈天保9年2月15日〉 - 1897年〈明治30年〉8月30日)は、玉垣部屋及び常盤山部屋に所属した元力士。常盤山小平治の婿及び7代行司木村庄三郎の父に当たる。 | ||
17 | 武藏野弥助 飯山市 | Wikipedia |
武藏野 弥助(むさしの やすけ、1824年(文政7年)- 1859年(安政6年))は、信濃国水内郡蓮村(現:長野県飯山市)出身の元大相撲力士。本名は森山 竹藏(もりやま たけぞう)。 |
野球
18 | 宮崎剛 長野市 | Wikipedia |
宮崎 剛(みやざき たけし、1918年12月17日 - 2015年5月22日)は、日本のプロ野球選手(内野手)・野球指導者・監督。 | ||
19 | 市岡忠男 | Wikipedia |
市岡 忠男(いちおか ただお、1891年(明治24年)11月15日 - 1964年(昭和39年)6月23日)は、日本の野球選手(捕手)・監督、プロ野球球団経営者。日本競輪学校初代校長。 | ||
20 | 桜井弥一郎 佐久市 | Wikipedia |
桜井 弥一郎(さくらい やいちろう、旧字体:櫻井 彌一郎、1883年12月2日 - 1958年5月17日)は、長野県出身の野球選手。 | ||
慶應義塾大学出身 長野県出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 |
漫画家・イラスト・ゲーム
21 | 望月桂 安曇野市 | Wikipedia |
望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日 - 1975年(昭和50)12月13日)は、アナキストの画家、デザイナー、漫画家である。漫画家としては筆名を犀川 凡太郎(さいかわ ぼんたろう)とする。 | ||
東京藝術大学出身 長野県出身の東京藝術大学の出身者 全国の東京藝術大学の出身者 |
作家・小説家・エッセイ・文筆・翻訳家・編集者
22 | 藤原てい | Wikipedia |
藤原 てい(ふじわら てい、1918年11月6日 - )は、日本の作家。夫は作家の新田次郎(本名・藤原寛人)、数学者でエッセイストの藤原正彦は次男。長野県茅野市出身。 | ||
23 | 大下宇陀児 箕輪町 | Wikipedia |
大下 宇陀児(おおした うだる、1896年(明治29年)11月15日 - 1966年(昭和41年)8月11日)は日本の探偵小説作家。本名、木下龍夫。 別名、XYZ。 | ||
九州大学出身 長野県出身の九州大学の出身者 全国の九州大学の出身者 | ||
24 | 塚原健二郎 | Wikipedia |
塚原 健二郎(つかはら けんじろう、1895年2月16日 - 1965年8月7日)は日本の童話作家。大正時代初期から昭和時代中期にかけて活動した。 | ||
25 | 浅原六朗 | Wikipedia |
浅原 六朗(あさはら ろくろう、1895年2月22日 - 1977年10月22日)は、日本の小説家。 | ||
26 | 伊藤松雄 | Wikipedia |
伊藤 松雄(いとう まつお、1895年(明治28年)1月13日 - 1947年(昭和22年)8月5日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家である。 | ||
27 | 藤森秀夫 | Wikipedia |
藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1日 - 1962年(昭和37年)12月20日)は、日本のドイツ文学者、童謡作家。別名に藤太彦。 | ||
28 | 酒井朝彦 | Wikipedia |
酒井 朝彦(さかい あさひこ、1894年10月1日 - 1969年5月25日)は、児童文学作家。本名・酒井源一。教師、編集者をへて創作に専念。1961から1962年、第5代日本児童文学者協会会長。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
29 | 藤森成吉 | Wikipedia |
藤森 成吉(ふじもり せいきち、1892年8月28日 - 1977年5月26日)は、日本の小説家、劇作家。 | ||
30 | 保篠龍緒 | Wikipedia |
保篠 龍緒(ほしの たつお、1892年11月6日 - 1968年6月4日)は、作家、翻訳家、『アサヒグラフ』編集長。 | ||
31 | 久米正雄 | Wikipedia |
久米 正雄(くめ まさお、1891年(明治24年)11月23日 - 1952年(昭和27年)3月1日 )は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号は三汀(さんてい)。“微苦笑”という語の発明者として有名。永井龍男は義弟(永井の妻が、久米の妻の妹)。息子の久米昭二はNHKの演芸番組のディレクターとなり、女優音羽美子と結婚した。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
32 | 国枝史郎 | Wikipedia |
国枝 史郎(くにえだ しろう、1887年10月4日 - 1943年4月8日)は日本の小説家。怪奇・幻想・耽美的な伝奇小説の書き手。他に探偵小説、戯曲なども執筆。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
33 | 平林広人 | Wikipedia |
平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1986年2月21日)は、日本の児童文学翻訳家。デンマーク文学者。アンデルセンの研究で知られる。 | ||
34 | 三津木春影 | Wikipedia |
三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 - 1915年7月8日)は、小説家・翻訳家。本名は一実(かずみ)。男性。 | ||
35 | 牛山鶴堂 下諏訪町 | Wikipedia |
牛山 鶴堂(うしやま かくどう、明治2年8月29日(1869年10月4日) - 1906年(明治39年)3月3日)は明治時代の翻訳家、小説家、新聞記者。1887年(明治20年)頃英文学の翻訳や政治小説を手がけた後、朝野新聞・中外商業新報で記者として活動した。 | ||
36 | 木下尚江 松本市 | Wikipedia |
木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2年9月8日)- 1937年(昭和12年)11月5日)は、日本の社会運動家、作家。男性。尚江は本名。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
37 | 松沢求策 安曇野市 | Wikipedia |
松沢 求策(まつざわ きゅうさく、安政2年6月15日(1855年7月28日) - 明治20年(1887年)6月25日)は、長野県安曇野市出身の自由民権家。 |
弁護士
38 | 小岩井浄 松本市 | Wikipedia |
小岩井 浄(こいわい きよし、1897年(明治30年)6月9日 ‐ 1959年(昭和34年)2月19日)は、日本の社会運動家、教育者、弁護士。愛知大学第3代学長。 | ||
39 | 山崎今朝弥 | Wikipedia |
山崎 今朝弥(やまざき けさや、山崎今朝彌、1877年9月15日 - 1954年7月29日)は、明治・大正・昭和期の弁護士である。社会主義者の事件を多く扱った。 | ||
明治大学出身 長野県出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
40 | 小川平吉 富士見町 | Wikipedia |
小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日(明治2年12月1日) - 1942年(昭和17年)2月5日)は、日本の弁護士、政治家。号は射山。東京府平民。 | ||
明治大学出身 長野県出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
41 | 今村力三郎 | Wikipedia |
今村 力三郎(いまむら りきさぶろう、1866年6月14日(慶応2年5月2日 ) - 1954年(昭和29年)6月12日)は、日本の弁護士であり、元裁判官。専修大学総長(第5代)。 | ||
専修大学出身 長野県出身の専修大学の出身者 全国の専修大学の出身者 |
建築家・建築学者・技術者
42 | 遠藤於莵 木曽町 | Wikipedia |
遠藤 於莵(えんどう おと、1866年12月28日 - 1943年2月17日)は、日本の建築家。日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者の一人で、「日本のペレ」とも評される。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 |
経営者・実業家
43 | 古村敏章 辰野町 | Wikipedia |
古村敏章(こむら としあき、1899年4月24日- 2000年1月1日)は、日本の実業家。 | ||
44 | 大蔵貢 | Wikipedia |
大蔵 貢(おおくら みつぎ、1899年11月22日 - 1978年9月15日)は活動写真の弁士、新東宝社長、大蔵映画社長。歌手近江俊郎の実兄[注釈 1]。 | ||
45 | 小川栄一 | Wikipedia |
小川 栄一(おがわ えいいち、1899年(明治32年)12月24日 - 1978年(昭和53年)12月8日)は日本の実業家。藤田観光の創業者。獅子文六の小説「箱根山」のモデルとなった。 | ||
46 | 野々山広三郎 | Wikipedia |
野々山 広三郎(ののやま こうざぶろう、1899年1月4日 - 1985年8月8日)は日本の実業家。サッポロビール元社長。長野県東筑摩郡宗賀村(現塩尻市)生まれ。 | ||
47 | 代田稔 飯田市 | Wikipedia |
代田 稔(しろた みのる、1899年4月23日 - 1982年3月10日)は日本の医学博士、実業家。ヤクルトの開発者で実質的な創業者。長野県下伊那郡竜丘村(現飯田市)出身。 | ||
京都大学出身 長野県出身の京都大学の出身者 全国の京都大学の出身者 | ||
48 | 百瀬結 | Wikipedia |
百瀬 結(ももせ ひとし、1897年11月1日 - 1982年12月24日)は日本の実業家。元日本ビクター社長・会長。ビクター中興の祖。 | ||
一橋大学出身 長野県出身の一橋大学の出身者 全国の一橋大学の出身者 | ||
49 | 宮入近治 | Wikipedia |
宮入 近治(みやいり ちかじ、1896年 - 1963年6月24日)は日本の実業家、生物学者。 | ||
千葉大学出身 長野県出身の千葉大学の出身者 全国の千葉大学の出身者 | ||
50 | 務臺光雄 | Wikipedia |
務臺 光雄(むたい みつお、1896年6月6日 - 1991年4月30日)は、日本の実業家。読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の社長、名誉会長や、讀賣テレビ放送の会長を務めた。長野県南安曇郡温村(現・安曇野市)出身。苗字は後述文献のように“務台”と表記される場合がある。 | ||
51 | 吉田正 | Wikipedia |
吉田 正(よしだ ただし、1896年10月20日 - 1969年8月19日)は日本の実業家。 | ||
52 | 荻原廣 | Wikipedia |
荻原 廣(おぎわら ひろし、1891年9月16日 - 1972年11月25日)は、日本の実業家。 | ||
53 | 片倉三平 岡谷市 | Wikipedia |
片倉 三平(かたくら さんぺい、1891年 - 1977年3月29日)は、日本の実業家、長く日東紡績などの経営に当たった。 | ||
54 | 松山茂助 | Wikipedia |
松山 茂助(まつやま もすけ、1890年12月2日 - 1973年6月25日)は日本の醸造学者、実業家。 | ||
55 | 林五一 岡谷市 | Wikipedia |
林 五一(はやし ごいち、1890年8月15日 - 1992年3月7日)は、日本の篤農家、実業家。ワインメーカー林農園 五一わいん創業者。長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)生まれ。 | ||
56 | 松岡弘 安曇野市 | Wikipedia |
松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 1983年3月8日)は、日本の教育者。第二次世界大戦後、長く信濃教育会会長を務め、また日本連合教育会会長も務めた。 | ||
57 | 東條たかし 安曇野市 | Wikipedia |
東條 たかし(とうじょう - 、1888年3月3日 - 1970年6月13日)は日本の実業家。「たかし」は「舟」「壽」が一字。 | ||
58 | 宮坂英弌 茅野市 | Wikipedia |
宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 1975年6月11日)は、日本の考古学者、茅野市尖石縄文考古館、初代館長。 長野県考古学会初代会長。茅野市名誉市民。 | ||
59 | 宮沢胤勇 岡谷市 | Wikipedia |
宮沢 胤勇(みやざわ たねお、1887年12月15日 - 1966年6月2日)は、日本の政治家、実業家。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
60 | 春日弘 | Wikipedia |
春日 弘(かすが ひろむ 1885年(明治18年)8月8日 - 1970年(昭和45年)9月12日)は、長野県下高井郡穂波村佐野(現・山ノ内町)出身の日本の実業家。 | ||
61 | 龍野右忠 | Wikipedia |
龍野 右忠(たつの うちゅう、1885年(明治11年) - 1965年)は、実業家。株式会社タツノの前身、龍野製作所を1911年に創業した。 | ||
62 | 上條信 | Wikipedia |
上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3日 - 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の実業家、政治家。筑摩鉄道(現・アルピコ交通上高地線)やバス事業を始め、多くの事業経営に携わった他、戦前・戦後に新村村長・長野県議会議員・衆議院議員をも務めた。 | ||
63 | 橋本福松 | Wikipedia |
橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1944年2月5日)は日本の地理学者、実業家。旧姓は平沢。 | ||
64 | 宮原清 | Wikipedia |
宮原 清(みやはら きよし、1882年12月4日 - 1963年10月16日)は、日本の実業家。日本社会人野球協会初代会長。 | ||
慶應義塾大学出身 長野県出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
65 | 五島慶太 青木村 | Wikipedia |
五島 慶太(ごとう けいた、1882年(明治15年)4月18日 - 1959年(昭和34年)8月14日)は日本の実業家。東京急行電鉄(東急)の事実上の創業者。正三位勲一等。旧姓は小林。 | ||
東京教育大学出身 長野県出身の東京教育大学の出身者 全国の東京教育大学の出身者 | ||
66 | 岩波茂雄 諏訪市 | Wikipedia |
岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年8月27日 - 1946年4月25日)は、日本の出版人、岩波書店創業者。貴族院多額納税者議員。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
67 | 伊原五郎兵衛 飯田市 | Wikipedia |
伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 - 1952年4月3日)は、長野県飯田市出身の実業家・鉄道経営者。 | ||
東京帝国大学出身 長野県出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
68 | 小山松寿 小諸市 | Wikipedia |
小山 松寿(こやま しょうじゅ、1876年1月28日 - 1959年11月25日)は、日本の政治家、新聞経営者。第33代衆議院議長(1937年7月 - 1941年12月)。1941年勲一等瑞宝章受章。歿時正三位勲一等旭日大綬章受章。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
69 | 松山原造 長和町 | Wikipedia |
松山 原造(まつやま げんぞう、1875年11月21日 - 1963年12月3日)は日本の実業家、篤農家。松山犂の発明で知られる。 | ||
70 | 瀬下清 佐久市 | Wikipedia |
瀬下 清(せじも きよし、1874年9月18日 - 1938年9月24日)は日本の銀行家。三菱銀行元会長。 | ||
71 | 名取和作 | Wikipedia |
名取 和作(なとり わさく、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1959年(昭和34年)6月4日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、富士電機製造会社(現・富士電機ホールディングス)初代社長。子に名取洋之助。 | ||
慶應義塾大学出身 長野県出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
72 | 小川金治 富士見町 | Wikipedia |
小川 金治(おがわ きんじ、慶応3年(1867年)1月 - 没年不明)は日本の実業家。達摩山(株)取締、富士見銀行専務、朝鮮企業取締。長野県平民。 | ||
73 | 神津邦太郎 佐久市 | Wikipedia |
神津 邦太郎(こうづ くにたろう、1865年12月11日(慶応元年10月24日) - 1930年(昭和5年)12月2日)は、日本の酪農家、銀行家、政治家。日本で最初の西洋式牧場の開設者。長野県平民。牧畜業。神津宗家20代。子孫には東京税理士会会長の神津信一税理士がいる。 | ||
74 | 羽田貞義 東御市 | Wikipedia |
羽田 貞義(はた さだよし、1864年 - 1933年)は日本の教育者、実業家。旧姓は寺島、号は鷲峰。 | ||
75 | 片倉兼太郎(2代目) 岡谷市 | Wikipedia |
二代目 片倉 兼太郞(にだいめ かたくら かねたろう、文久2年12月24日 / グレゴリオ暦1863年2月12日 - 1934年1月8日)は、日本の実業家、資本家である。出生名は宗広(むねひろ)、片倉組創立者・初代片倉兼太郞の弟であったが、兄の養嗣子になり佐一(さいち)と名乗る。1917年、二代目片倉兼太郎を襲名。片倉組二代目組長、称号改め片倉製糸紡績(現在の片倉工業)社長、日東紡績社長等を歴任した[4]。 | ||
76 | 鈴木梅四郎 | Wikipedia |
鈴木 梅四郎(すずき うめしろう、1862年5月24日(文久2年4月26日) - 1940年(昭和15年)4月15日)は、明治 - 昭和期の実業家、政治家、社会運動家。財団法人実費診療所創立者。 | ||
慶應義塾大学出身 長野県出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
77 | 小山久左衛門 小諸市 | Wikipedia |
小山 久左衛門(こやま きゅうざえもん、文久2年(1862年) - 大正7年(1918年))は日本の実業家。久左衛門は世襲名であり、諱は正友、幼名は邦太郎。小山邦太郎・小山敬三兄弟の父親。 | ||
78 | 赤羽萬次郎 松本市 | Wikipedia |
赤羽 萬次郎(あかばね まんじろう、1861年 - 1898年)は、日本の新聞記者・自由民権派ジャーナリスト。北國新聞社初代社長・主筆。雅号は「痩鶴(そうかく)」。 | ||
79 | 尾澤福太郎 岡谷市 | Wikipedia |
尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう、1860年3月4日〈万延元年2月12日〉 - 1937年9月17日)は、日本の実業家。姓の「澤」は「沢」の旧字体、名の「福」は「福」の異字体、「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう)、尾澤 福太郎(おざわ ふくたろう)、尾沢 福太郎(おざわ ふくたろう)とも表記される。 | ||
80 | 渡邊嘉一 | Wikipedia |
渡邊 嘉一(わたなべ かいち、1858年3月22日(安政5年2月8日) - 1932年12月4日)は日本の土木技術者、実業家。日本土木史の父と呼ばれる。旧姓、宇治橋。 | ||
81 | 丸山名政 | Wikipedia |
丸山 名政(まるやま なまさ、1857年11月11日(安政4年9月25日) - 1922年(大正11年)11月21日)は、日本の政治家、実業家、官僚。 | ||
明治大学出身 長野県出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
82 | 小坂善之助 | Wikipedia |
小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年(1853年)7月15日 - 大正2年(1913年)12月21日)は、日本の政治家、実業家。長野県議会議員、衆議院議員を務めた。 | ||
83 | 今村清之助 高森町 | Wikipedia |
今村 清之助(いまむら せいのすけ、1849年3月26日(嘉永2年3月3日) - 1902年(明治35年)9月26日)は、日本の実業家。 | ||
84 | 市川量造 松本市 | Wikipedia |
市川 量造(いちかわ りょうぞう、1844年12月8日 - 1908年2月15日)は、元長野県会議員、元信飛新聞社社長、啓蒙家。松本城が競売にかけられた際に買い戻した人物として知られる。幼名は泰之助。 | ||
85 | 小松彰 | Wikipedia |
小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3月9日) - 1888年(明治21年)3月25日)は明治時代の日本の実業家、官僚。旧松本藩士。久美浜県権知事兼生野県権知事、豊岡県令、東京株式取引所頭取を歴任した。通称・彰太郎、左右輔。号は雪巌[2]。 | ||
86 | 田中平八 | Wikipedia |
田中平八(たなかへいはち 1834年8月15日(天保5年7月11日) - 1884年(明治17年)6月8日)は、幕末、明治の実業家。本姓は藤島。幼名は釜吉。名は政春。 | ||
87 | 千葉勝五郎 駒ヶ根市 | Wikipedia |
千葉 勝五郎(ちば かつごろう、天保4年(1833年) - 明治36年(1903年)4月13日)は、日本の実業家。歌舞伎座開設に関わったことで知られる。通称千葉勝。 | ||
88 | 石坂周造 飯山市 | Wikipedia |
石坂 周造(いしざか しゅうぞう、天保3年1月1日(1832年2月2日) - 明治36年(1903年5月22日)は、幕末の志士。尊皇攘夷論者。明治期には石油産業の祖として知られる。幼名は源造、号は宗順(そうじゅん)。江戸では彦根藩脱藩浪士を自称していた。 |
デザイナー
89 | 永島四郎 長野市 | Wikipedia |
永島 四郎(ながしま しろう、1894年 - 1963年)は日本のフラワーデザイナー、華道家。日本のフラワーデザイン(花卉装飾)における先駆者。 |
医師・看護師
90 | 矢崎芳夫 茅野市 | Wikipedia |
矢崎 芳夫(やざき よしお、1894年4月14日 - 1972年3月9日)は日本の医師、医学者、衛生学者。 | ||
東京慈恵会医科大学出身 長野県出身の東京慈恵会医科大学の出身者 全国の東京慈恵会医科大学の出身者 | ||
91 | 上條秀介 松本市 | Wikipedia |
上條秀介(かみじょうしゅうすけ、1893年12月22日 - 1956年5月19日)は日本の医師。1928年(昭和3年)に昭和医学専門学校(現・昭和大学)を設立し、日本病院協会(現・日本病院会)の初代会長も務めた。勲四等瑞宝章、従五位に叙された。 | ||
92 | 岩淵大殿 松本市 | Wikipedia |
岩淵 大殿(いわぶち だいでん、1889年 - 1974年3月1日)は、日本の宗教哲学者。歯科医師。 | ||
93 | 金井章次 上田市 | Wikipedia |
金井 章次(かない しょうじ、1888年12月1日 - 1967年12月3日)は日本の医師、官僚。蒙古聯合自治政府最高顧問。旧姓は倉島。 | ||
東京帝国大学出身 長野県出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
94 | 正木不如丘 | Wikipedia |
正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 - 1962年7月30日)は、日本の作家、医師。本名・俊二(不如丘は俳号または筆名)。 | ||
95 | 高橋信美 | Wikipedia |
高橋 信美(たかはし のぶよし、1884年 - 1958年)は日本の医師。医学者。 | ||
96 | 榛葉太生 松川村 | Wikipedia |
榛葉 太生(しんは ふとお、1883年 - 1962年)は、日本の医師。「安曇節」の初代家元。号は出原処士。 | ||
97 | 竹内茂代 | Wikipedia |
竹内 茂代(たけうち しげよ、1881年8月31日 - 1975年12月15日)は日本の医師(医学博士)、政治家。 | ||
98 | 小口忠太 上田市 | Wikipedia |
小口 忠太(おぐち ちゅうた、1875年1月6日 - 1945年7月23日)は日本の医師。医学者。 | ||
99 | 中原市五郎 | Wikipedia |
中原 市五郎(なかはら いちごろう、1867年5月15日 - 1941年3月22日)は、日本の歯科医師、政治家。日本歯科医学専門学校(現:日本歯科大学)の創始者。 | ||
100 | 西郷吉義 | Wikipedia |
西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政2年11月7日) - 1927年(昭和2年)9月3日)は、明治期から大正期の医師、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医・宮中顧問官を歴任する。 | ||
101 | 須田泰嶺 伊那市 | Wikipedia |
須田 泰嶺(すだ たいれい、文政8年5月5日(1825年6月20日) - 明治41年(1908年)9月5日)は日本の医師(蘭方医)。諱は経哲 、号は経石、老嶺。 |
軍人
102 | 今井武夫 | Wikipedia |
今井 武夫(いまい たけお、1898年2月23日 - 1982年6月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
103 | 柳澤蔵之助 | Wikipedia |
柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年)2月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。海兵46期、海大29期(首席)。最終階級は海軍少将。長野県佐久市出身。 | ||
104 | 有賀幸作 辰野町 | Wikipedia |
有賀 幸作(あるが こうさく、1897年(明治30年)8月21日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦大和最後の艦長として有名である。長野県南信地方に多い姓である有賀は、「ありが」ではなく「あるが」と読む例が多いが、当人は相手が聞き返すことを嫌い、ありがの読み方で通した。軍帽裏のネーム刺繍もアリガとしていた。 | ||
105 | 古村啓蔵 | Wikipedia |
古村 啓蔵(こむら けいぞう、1896年7月20日 - 1978年2月7日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。戦艦「武蔵」の第2代艦長であり、坊の岬沖海戦では軽巡洋艦「矢矧」に乗艦。第二水雷戦隊を指揮していた。あだ名は「両舷直の親玉」。 | ||
106 | 宮崎周一 | Wikipedia |
宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2月6日 - 1969年(昭和44年)10月16日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は歩兵。 | ||
107 | 金子繁治 | Wikipedia |
金子 繁治(かねこ しげじ、1894年(明治27年)4月20日 - 1981年(昭和56年)2月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
108 | 中澤佑 | Wikipedia |
中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28日 - 1977年(昭和52年)12月22日)は、日本の海軍軍人。海兵43期、海大26期。最終階級は海軍中将。 | ||
109 | 柳田元三 | Wikipedia |
柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 1952年10月7日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。 | ||
110 | 渋谷紫郎 | Wikipedia |
渋谷 紫郎(しぶや しろう、1893年(明治26年)11月18日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争初期に第十六駆逐隊司令として南方攻略戦に参加し、のち第百一戦隊司令官として戦死した海軍中将である。 | ||
111 | 細見惟雄 | Wikipedia |
細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日 - 1963年(昭和38年)8月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士25期。最終階級は陸軍中将。 | ||
112 | 一木清直 高森町 | Wikipedia |
一木 清直(いちききよなお、1892年10月16日 - 1942年8月21日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校卒(28期)。 | ||
113 | 栗林忠道 長野市 | Wikipedia |
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 ‐ 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 | ||
114 | 丸茂邦則 | Wikipedia |
丸茂 邦則(まるも くになり、または まるも くにのり、1891年10月2日 - 1985年6月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
115 | 中原謹司 | Wikipedia |
中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 1951年3月1日)は日本の政治家。長野県の在郷軍人有志で結成された政治結社信州郷軍同志会の理論的指導者であり、大政翼賛会では中央協力会議部副部長として新体制運動を担った。号は起雲子。 | ||
116 | 板花義一 安曇野市 | Wikipedia |
板花 義一(いたはな ぎいち、1889年1月29日 - 1961年10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
陸軍士官学校出身 長野県出身の陸軍士官学校の出身者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
117 | 本多政材 | Wikipedia |
本多 政材(ほんだ まさき、1889年(明治22年)5月17日 - 1964年(昭和39年)7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
118 | 丸山政男 | Wikipedia |
丸山 政男(まるやま まさお、1889年9月13日 - 1957年11月11日は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
119 | 木島袈裟雄 | Wikipedia |
木島 袈裟雄(きじま けさお、1889年(明治22年)11月20日 - 1965年(昭和40年)2月10日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
120 | 両角業作 | Wikipedia |
両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年1月4日 - 1963年9月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
121 | 清水光美 | Wikipedia |
清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日 - 1971年(昭和46年)5月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
122 | 樋口修一郎 | Wikipedia |
樋口 修一郎(ひぐち しゅういちろう、1888年(明治21年)1月18日 - 1949年(昭和24年)11月24日)は、日本の海軍軍人。海軍潜水学校校長を務めた海軍中将である。 | ||
123 | 細萱戊子郎 | Wikipedia |
細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6月24日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
124 | 藤森清一朗 | Wikipedia |
藤森 清一朗(ふじもり せいいちろう、1888年11月10日 - 1975年5月20日)は、日本の海軍軍人。大東亜戦争に於ける一連の戦いでは、既に予備役となっていたにも拘らず充員召集され、司令官として各地を転戦した。海軍兵学校37期、海軍大学校19期卒。最終階級は海軍少将。 | ||
125 | 平林盛人 | Wikipedia |
平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - 1969年5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。 | ||
126 | 春日篤 | Wikipedia |
春日 篤(かすが あつし、1887年10月4日 - 1976年2月11日)は、長野県下高井郡穂波村佐野(現在、山ノ内町)出身の日本の帝国海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
127 | 小須田勝造 | Wikipedia |
小須田 勝造(こすだ かつぞう、1886年2月20日 - 1977年12月26日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。 | ||
128 | 小林宗之助 | Wikipedia |
小林 宗之助(こばやし そうのすけ、1886年10月2日 - 1975年3月17日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
129 | 永田鉄山 | Wikipedia |
永田 鉄山(ながた てつざん、1884年(明治17年)1月14日 - 1935年(昭和10年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍中央幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校も2位で卒業、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任する。軍務官僚として常に本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だったが、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に殺害される。死亡時は、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。陸軍三羽烏の一人。 | ||
130 | 水城圭次 | Wikipedia |
水城 圭次(みずしろ けいじ、1883年(明治17年)11月10日 - 1927年(昭和2年)12月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 | ||
131 | 山田乙三 | Wikipedia |
山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月6日 - 1965年(昭和40年)7月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
132 | 小松慶也 | Wikipedia |
小松 慶也(こまつ けいや、1878年2月3日 - 1939年6月16日)は、明治の陸軍騎兵大尉。1910年にアルゼンチンへ移民し、牧場主となった。 | ||
133 | 赤沼金三郎 | Wikipedia |
赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(慶応元年5月30日) - 1900年(明治33年)11月5日)は明治時代の教育者、軍人、倫理学者。字は士朗、号は天心狂史、枕戟学人。死去時の地位は第一高等学校講師陸軍歩兵中尉従七位勲六等文学士。 | ||
134 | 伊東義五郎 | Wikipedia |
伊東 義五郎(いとう よしごろう、1858年6月26日(安政5年5月16日) - 1919年2月22日)は、日本海軍の軍人、最終階級は海軍中将。男爵。 | ||
135 | 坂本俊篤 | Wikipedia |
坂本 俊篤(さかもと としあつ、1858年11月30日(安政5年10月25日) - 1941年3月17日)は、日本海軍の軍人、政治家。海軍中将従二位勲一等功三級男爵。貴族院議員。 | ||
136 | 富岡定恭 | Wikipedia |
富岡 定恭(とみおか さだやす、1854年12月24日(嘉永7年11月5日) - 1917年(大正6年)7月1日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。 | ||
137 | 鹿野勇之進 | Wikipedia |
鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4年9月14日) - 1914年4月7日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。貴族院議員。 | ||
138 | 牧野毅 | Wikipedia |
牧野 毅(まきの つよし、1845年5月(弘化元年4月)- 1894年(明治27年)9月1日)は、日本の陸軍軍人。陸軍少将、正四位勲三等。大阪砲兵工廠提理。近代日本の砲兵術・製鉄事業の先駆けの一人。 |
官僚
139 | 大池眞 | Wikipedia |
大池 眞(おおいけ まこと、1896年1月5日 - 1990年7月5日)は、日本の官僚。 | ||
140 | 塩原時三郎 | Wikipedia |
塩原 時三郎(しおばら ときさぶろう、1896年2月18日 - 1964年10月27日)は、日本の逓信官僚、政治家。衆議院議員、通信院総裁・逓信院総裁、官選清水市長。 | ||
141 | 中村孝次郎 小川村 | Wikipedia |
中村 孝次郎(なかむら こうじろう、1891年(明治24年)5月28日 - 1969年(昭和44年)[要出典])は、日本の大蔵官僚。 | ||
142 | 堀内林平 青木村 | Wikipedia |
堀内 林平(ほりうち りんぺい、1887年(明治20年)1月11日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。東京市区長。 | ||
143 | 五味均平 | Wikipedia |
五味 均平(ごみ きんぺい、1877年10月 - 1924年4月14日)は、日本の官僚。 | ||
144 | 河野秀男 | Wikipedia |
河野 秀男(こうの ひでお、1874年(明治7年)9月4日 - 1938年(昭和13年)3月12日)は、日本の官僚。会計検査院長、貴族院勅選議員。 | ||
145 | 有賀光豊 | Wikipedia |
有賀 光豊(あるが みつとよ、1873年5月23日 - 1949年5月31日)は、日本の官僚。 | ||
146 | 中川元 | Wikipedia |
中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1913年9月28日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校(熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校(東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。旧名・孫一郎、号は槐陰。 | ||
147 | 伊沢修二 | Wikipedia |
伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年6月30日(嘉永4年6月2日) - 1917年(大正6年)5月3日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者である。号は楽石。 |
公務員
148 | 吉野文六 | Wikipedia |
吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 2015年3月29日)は、日本の外交官。 | ||
149 | 横田正俊 長野市 | Wikipedia |
横田 正俊(よこた まさとし、1899年(明治32年)1月11日 - 1984年(昭和59年)7月1日)は、日本の裁判官。第4代最高裁判所長官を務めた。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。なお、前任の最高裁判所長官横田喜三郎と同姓だが、血縁関係はない。 | ||
150 | 秋山理敏 伊那市 | Wikipedia |
秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年(明治30年)4月 - 1947年(昭和22年)9月29日)は、日本の外交官。駐パナマ公使。 | ||
151 | 吉沢清次郎 | Wikipedia |
吉沢 清次郎(よしざわ せいじろう、1893年2月6日 - 1978年4月2日)は日本の外交官。 | ||
152 | 松島肇 | Wikipedia |
松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 1961年4月15日)は、日本の外交官。 | ||
153 | 小平総治 | Wikipedia |
小平 総治(こだいら そうじ、1876年 - 1935年10月18日)は、日本の外交官。通訳官。号は綏芳。 | ||
二松學舍大学出身 長野県出身の二松學舍大学の出身者 全国の二松學舍大学の出身者 |
学者・教授・准教授
154 | 宮坂哲文 筑北村 | Wikipedia |
宮坂 哲文(みやさか てつふみ、1918年5月10日 - 1965年1月24日)は、日本の教育学者。 | ||
155 | 三輪知雄 諏訪市 | Wikipedia |
三輪 知雄(みわ ともお、1899年12月27日 - 1979年12月27日)は、長野県諏訪市出身の植物学者。 | ||
156 | 宮沢俊義 長野市 | Wikipedia |
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月6日 - 1976年(昭和51年)9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。貴族院議員。長野県長野市出身。 | ||
157 | 福井康順 | Wikipedia |
福井 康順(ふくい こうじゅん、1898年4月27日 - 1991年1月21日)は、日本の仏教学者、中国学者。元大正大学学長、早稲田大学名誉教授。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
158 | 市村今朝蔵 | Wikipedia |
市村 今朝蔵(いちむら けさぞう、1898年-1950年6月9日)は、日本の政治学者、地主。日本女子大学教授、早稲田大学教授。日本女子大学理事、森村学園理事、明星学園理事長等を歴任[3]。 | ||
159 | 岡正雄 松本市 | Wikipedia |
岡 正雄(おか まさお、1898年(明治31年)6月5日 - 1982年(昭和57年)12月5日)は、日本の民族学者。戦中戦後を通じて日本の民族学・文化人類学を主導した。兄は民族学や考古学、山岳書の名著を多数出版した岡書院店主の岡茂雄。 | ||
160 | 有賀喜左衛門 辰野町 | Wikipedia |
有賀 喜左衛門(ありが きざえもん、 1897年1月20日 - 1979年12月20日 )は、日本の社会学者。日本の農村社会を独自のイエ・ムラ理論によって考究し、農村社会学の理論的確立を行なった。 | ||
161 | 横山重 | Wikipedia |
横山 重(よこやま しげる、1896年1月22日 - 1980年10月8日[2])は、中世国文学者。 | ||
162 | 武居三吉 | Wikipedia |
武居 三吉(たけい さんきち、1896年10月26日 - 1952年6月25日)は日本の農芸化学者。 | ||
163 | 篠遠喜人 下諏訪町 | Wikipedia |
篠遠 喜人(しのとお よしと、1895年2月20日 - 1989年9月16日)は、長野県下諏訪町出身の遺伝学者、科学史家、東京大学名誉教授。国際基督教大学学長。 | ||
164 | 山口左仲 | Wikipedia |
山口 左仲(やまぐち さちゅう、1894年4月21日 - 1976年3月11日)は、日本の寄生虫学者。医学博士・理学博士。寄生蠕虫類(吸虫・条虫・線虫・鉤頭虫など)の形態・分類学に関する多くの業績を残した。 | ||
165 | 川井清一郎 松本市 | Wikipedia |
川井 清一郎(かわい せいいちろう、1894年3月6日 - 1930年5月17日)は、日本の教育者。 | ||
166 | 青木誠四郎 松本市 | Wikipedia |
青木 誠四郎(あおき せいしろう、1894年3月15日-1956年12月9日)は、日本の児童・教育心理学者。 | ||
167 | 一志茂樹 大町市 | Wikipedia |
一志 茂樹(いっし しげき、 1893年11月12日 - 1985年2月27日)は日本の郷土史家、教育者。 | ||
國學院大學出身 長野県出身の國學院大學の出身者 全国の國學院大學の出身者 | ||
168 | 小林巳智次 | Wikipedia |
小林 巳智次(こばやし みちじ、明治26年(1893年)11月15日 - 1977年1月17日)は、日本の法学者。農学博士。専門は民法、産業法、農業法。特に、入会権、永小作権、農林に関する法律を研究。 | ||
169 | 中村佐一 信濃町 | Wikipedia |
中村 佐一(なかむら さいち、1891年2月6日 - 1978年6月18日)は経済学者。専門は金融論。 | ||
170 | 務台理作 | Wikipedia |
務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974年7月5日)は、日本の哲学者。 | ||
京都大学出身 長野県出身の京都大学の出身者 全国の京都大学の出身者 | ||
171 | 塩入亮忠 | Wikipedia |
塩入 亮忠(しおいり りょうちゅう、1889年6月23日 - 1971年12月23日)は、天台宗の僧、仏教学者。第13代大正大学学長。雅号・一乗子、別名・汲海。 | ||
172 | 西尾実 | Wikipedia |
西尾 実(にしお みのる、1889年5月14日 - 1979年4月16日)は、日本の国文学者、国語教育学者、国語学者。 | ||
173 | 竹野長次 山形村 | Wikipedia |
竹野 長次(たけの ちょうじ、1889年12月10日 - 1962年7月25日)は、日本の国文学者。 | ||
174 | 塩入松三郎 | Wikipedia |
塩入 松三郎(しおいり まつさぶろう、1889年11月12日 - 1962年10月1日)は、土壌学者。東京大学名誉教授。土壌学、肥料学の権威で、水田土壌、畑土壌化学、休閑期の土壌乾燥効果等の研究に於いて業績を残した。 | ||
175 | 鈴木雅次 松本市 | Wikipedia |
鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 1987年5月28日)は、日本の土木工学者、内務官僚。元日本大学教授。土木工学・港湾工学の研究に業績を上げる。 | ||
九州大学出身 長野県出身の九州大学の出身者 全国の九州大学の出身者 | ||
176 | 植松七九郎 富士見町 | Wikipedia |
植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年11月3日 - 1968年5月9日)は、日本の精神医学者。 | ||
177 | 千野光茂 諏訪市 | Wikipedia |
千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、日本の遺伝学者。 | ||
178 | 恩田経介 | Wikipedia |
恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1972年4月18日)は、日本の植物学者。旧姓は小山。 | ||
179 | 田中豊 | Wikipedia |
田中 豊(たなか ゆたか、1888年(明治21年)1月29日 - 1964年(昭和39年)8月27日) は、日本近代橋梁史上最も著名な技術者である。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
180 | 長田新 | Wikipedia |
長田 新(おさだ あらた、1887年2月1日 - 1961年4月18日)は、日本の教育学者。広島大学名誉教授。専門は教育思想史。 | ||
京都大学出身 長野県出身の京都大学の出身者 全国の京都大学の出身者 | ||
181 | 赤羽一雄 伊那市 | Wikipedia |
赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 1981年5月21日)は日本の教育者。号は王郎。 | ||
182 | 今井登志喜 | Wikipedia |
今井 登志喜(いまい としき、1886年6月8日 - 1950年3月21日)は、西洋史学者、東京帝国大学名誉教授。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
183 | 白木正博 | Wikipedia |
白木 正博(しらき まさひろ、1885年11月3日 - 1960年11月2日)は、日本の医学者(産科学・婦人科学)。日本の産婦人科学界の父と呼ばれ、子宮がん治療に初めて放射線を採用したことで知られる。白木博次は次男。 | ||
184 | 藤原咲平 諏訪市 | Wikipedia |
藤原 咲平(ふじわら さくへい、1884年10月29日 - 1950年9月22日)は、日本の気象学者。英語名は、故郷の発音に忠実にするため、Fujiwharaと綴るのが正しい。Fujiwaraは誤り。 | ||
185 | 小平権一 茅野市 | Wikipedia |
小平 権一(こだいら ごんいち、古い文書では「權一」。1884年1月6日 - 1976年8月1日)は、日本の農政官僚、政治家である。数学者の小平邦彦は長男。 | ||
186 | 田中義麿 塩尻市 | Wikipedia |
田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 1972年7月1日)は日本の遺伝学者、育種学者。 | ||
187 | 西村真琴 松本市 | Wikipedia |
西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月26日 - 1956年(昭和31年)1月4日)は、日本の生物学者。元・北海道帝国大学教授。マリモの研究や、人間型ロボット「學天則」の制作などで知られる。次男は俳優西村晃。 | ||
188 | 菰田万一郎 | Wikipedia |
菰田 万一郎(こもだ まんいちろう、1882年11月9日 - 1940年3月6日)は日本の教育者。旧姓は早川。 | ||
189 | 熊谷岱蔵 塩尻市 | Wikipedia |
熊谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月19日 - 1962年(昭和37年)2月19日)は、内科医学者、医学博士。東北帝国大学医科大学(後の東北大学医学部)教授、総長。附属抗酸菌病研究所初代所長。興亜工業大学顧問を兼任。従二位、勲一等旭日大綬章。 | ||
190 | 神津俶祐 | Wikipedia |
神津 俶祐(こうづ しゅくすけ、1880年6月5日 - 1955年2月11日)は日本の岩石学者、鉱物学者。東北大学教授。 | ||
191 | 八木貞助 | Wikipedia |
八木 貞助(やぎ ていすけ、1879年8月22日 - 1951年6月20日)は、日本の地質学者、植物学者。 | ||
192 | 春日政治 | Wikipedia |
春日 政治(かすが まさじ、1878年4月1日 – 1962年6月30日)は、日本の国語学者。平安時代初期の古経典から仮名や古訓点の研究に業績を残し、訓点語学の基礎を築いた。 | ||
193 | 中沢臨川 中川村 | Wikipedia |
中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10月28日 - 1920年(大正9年)8月9日)は、日本の文芸評論家、電気工学者。本名は重雄。 | ||
194 | 伊藤長七 諏訪市 | Wikipedia |
伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 1930年4月19日)は、日本の教育者。 | ||
195 | 波多野精一 | Wikipedia |
波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日 - 1950年1月17日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第2代学長。 | ||
196 | 田中穂積 長野市 | Wikipedia |
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日 - 1944年(昭和19年)8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。 | ||
197 | 山岡萬之助 岡谷市 | Wikipedia |
山岡 萬之助(やまおか まんのすけ、明治9年(1876年)4月12日 - 昭和43年(1968年)6月22日)は日本の法学者、哲学者。法学博士。日本大学第3代総長・総裁。貴族院議員。 | ||
日本大学出身 長野県出身の日本大学の出身者 全国の日本大学の出身者 | ||
198 | 河原操子 松本市 | Wikipedia |
河原 操子(かわはら みさこ、1875年6月6日 - 1945年3月7日)は女子教育者。 | ||
199 | 飯島忠夫 | Wikipedia |
飯島 忠夫(いいじま ただお、1875年2月3日 - 1954年9月27日)は、東洋史学者。 | ||
200 | 高橋偵造 | Wikipedia |
高橋 偵造(たかはし ていぞう、1875年9月2日 - 1952年9月26日)は、日本の農芸化学者。 | ||
201 | 市川源三 | Wikipedia |
市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 1940年3月25日)は、日本の教育者。長野県北佐久郡三都和村(現・立科町)出身。1895年長野師範学校卒業、1900年東京高等師範学校卒業。 | ||
202 | 中山久四郎 御代田町 | Wikipedia |
中山久四郎(なかやま きゅうしろう、1874年2月10日-1961年9月7日)は、東洋史学者。 | ||
203 | 青柳栄司 | Wikipedia |
青柳 栄司(あおやぎ えいじ、1873年3月12日 - 1944年8月12日)は、日本の電気工学者。送配電に関する研究に従事し、半真空電球やタングステンアーク灯などを発明。窒素バリウムの製法と適用法を確立した。また電気工学講習所などの設立につくした。信濃国安曇郡上堀金村(現長野県安曇野市)生まれ。 | ||
204 | 神津藤平 佐久市 | Wikipedia |
神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日(明治4年12月6日) - 1960年(昭和35年)10月11日)は日本の実業家。長野電鉄創業者、志賀高原開発者。地質学者の神津俶祐は実弟。 | ||
205 | 樋口長市 松本市 | Wikipedia |
樋口 長市(ひぐち ちょういち、1871年 − 1945年9月1日)は、日本の教育学者である。八大教育主張講演の論者の一人であり、「自学主義」を唱える。だがその「自学」とは、あくまで教科書を中心としたものであった。 | ||
206 | 加藤正治 筑北村 | Wikipedia |
加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年3月10日) - 1952年(昭和27年)3月16日)は、日本の法学者。東京大学名誉教授。第11代中央大学学長、初代総長。日本郵船副社長加藤正義の養子になった。旧姓平林。 | ||
関西学院大学出身 長野県出身の関西学院大学の出身者 全国の関西学院大学の出身者 | ||
207 | 水崎基一 | Wikipedia |
水崎 基一(みずさき もといち、1871年(明治4年)9月28日 - 1937年(昭和12年)11月29日)は、日本の経済学者、教育者。同志社大学経済学部教授を経て、浅野綜合中学校(現・浅野中学校・高等学校)初代校長。クリスチャンで書、漢詩、短歌の雅号は濃川[2]。 | ||
208 | 高山正雄 塩尻市 | Wikipedia |
高山 正雄(たかやま まさお、1871年6月24日(明治4年5月7日) - 1944年(昭和19年)10月10日)は、日本の法医学者。 | ||
明治大学出身 長野県出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
209 | 保科百助 立科町 | Wikipedia |
保科 百助(ほしな ひゃくすけ、1868年7月27日(慶応4年6月8日) - 1911年(明治44年)6月7日)は日本の教育者、鉱物学者。「にぎりぎん式教育」を提唱した。号は蜻洲(せいしゅう)、後に五無斎(ごむさい)。 | ||
210 | 矢澤米三郎 | Wikipedia |
矢澤 米三郎(やざわ よねさぶろう、1868年(明治元年)5月2日 - 1942年(昭和17年)3月31日)は日本の博物学者、教育者である。日本におけるライチョウ研究の先駆者として知られる。 | ||
211 | 白沢保美 | Wikipedia |
白沢 保美(白澤 保美、しらさわ やすみ、しらさわ ほみ、しらさわ やすよし、1868年(慶応4年)4月 - 1947年12月20日)は、日本の樹木学者。東京市の初期、都市緑化事業の指導にあたる。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
212 | 近藤次繁 松本市 | Wikipedia |
近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1944年(昭和19年)3月4日)は、日本の明治から昭和期における医学博士・外科医。東京帝国大学医学部教授・病院長。日本で最初に胃がんの手術を成功させた外科医である。。 | ||
213 | 澤柳政太郎 | Wikipedia |
澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日(慶応元年4月23日) - 1927年(昭和2年)12月24日)は、近代日本の文部官僚、教育者、貴族院勅選議員。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。子の一人に、美術史学者となった澤柳大五郎がいる。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
214 | 山極勝三郎 上田市 | Wikipedia |
山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(文久3年2月23日) - 1930年(昭和5年)3月2日)は、日本の病理学者。人工癌研究のパイオニアとして知られる。 | ||
215 | 瀧澤菊太郎 千曲市 | Wikipedia |
瀧澤 菊太郎(たきざわ きくたろう、1854年12月4日(嘉永7年10月15日) - 1933年(昭和8年)1月12日)は、明治期の教育者、師範学校校長。 | ||
慶應義塾大学出身 長野県出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
216 | 角田忠行 佐久市 | Wikipedia |
角田 忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年12月6日) - 大正7年(1918年)12月15日)は日本の国学者、神官。通称は由三郎。 |
研究者・研究家・発明家
217 | 斎藤三郎 野沢温泉村 | Wikipedia |
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年(明治28年)8月26日 - 1960年(昭和35年)2月2日)は、日本の野球史研究家、文学研究家。 | ||
218 | 黒木勘蔵 | Wikipedia |
黒木勘蔵(くろき かんぞう、1882年9月10日 ‐ 1930年10月8日)は、日本近世文学研究者。 | ||
219 | 高野成雄 飯綱町 | Wikipedia |
高野 成雄(たかの しげお、1877年(明治10年)11月7日 - 没年不明)は、明治・大正時代の養蚕術研究家。北信成蚕社を創始し、長野県における近代養蚕業の功労者とされる。 | ||
220 | 大工原銀太郎 | Wikipedia |
大工原 銀太郎(たいくばら ぎんたろう、1868年1月27日〈慶応4年1月3日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月9日)は、日本の科学者。土壌酸性による影響がアルミニウムによることを世界で初めて発見した研究者。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
221 | 河野常吉 松本市 | Wikipedia |
河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年11月22日) - 1930年(昭和5年)9月3日)は、明治大正期の北海道史研究者。河野齢蔵は実弟、アイヌ研究者として名高い河野広道は子、また二女の道子は動物学者犬飼哲夫に嫁ぎ、河野本道は孫に当たる。 |
画家・写真家・書道家・彫刻家・陶芸家・漆芸家・工芸家
222 | 清水多嘉示 原村 | Wikipedia |
清水 多嘉示(しみず たかし、1897年7月27日 - 1981年5月5日)は、日本の彫刻家である。 | ||
223 | 高橋貞一郎 岡谷市 | Wikipedia |
高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年‹明治30年› - 1955年‹昭和30年›)は、長野県岡谷市出身の洋画家。諏訪地域の美術界の草創期を支え、美術教育にも力を注いだ人物である。 | ||
224 | 小山敬三 小諸市 | Wikipedia |
小山 敬三(こやま けいぞう、1897年(明治30年)8月11日 - 1987年(昭和62年)2月7日)は、昭和期の洋画家。 | ||
225 | 宮坂勝 | Wikipedia |
宮坂 勝(みやさか まさる、1895年1月1日 - 1953年4月10日)は、明治から昭和にかけての洋画家。 | ||
226 | 武井武雄 岡谷市 | Wikipedia |
武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日-1983年2月7日)は、童画家、版画家、童話作家、造本作家である。 | ||
227 | 武井直也 岡谷市 | Wikipedia |
武井直也(たけい なおや、1893年6月16日 – 1940年2月5日)は、日本の彫刻家である。 | ||
228 | 大森光彦 辰野町 | Wikipedia |
大森光彦(おおもりみつひこ、1892年(明治25年)6月13日 - 1954年(昭和29年)5月19日)は、日本の陶芸家。長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。愛知県立瀬戸窯業学校卒業。 | ||
229 | 中川紀元 辰野町 | Wikipedia |
中川 紀元(なかがわ きげん、1892年(明治25年)2月11日 - 1972年(昭和47年)2月9日)は、日本の画家である。旧姓は有賀、本名は紀元次。 | ||
230 | ハリー・K・シゲタ 上田市 | Wikipedia |
ハリー・キンジ・シゲタ(Harry Kinzi Shigeta、日本名:重田 欣二(しげた きんじ)、1887年7月5日 - 1963年4月21日)は、日系アメリカ人の写真家。1954年に日本からアメリカ合衆国へ帰化した。 | ||
231 | 郷原古統 塩尻市 | Wikipedia |
郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 1965年4月6日)は日本統治時代の台湾で活躍した日本の画家、美術教育者。本名は郷原藤一郎。 | ||
東京芸術大学出身 長野県出身の東京芸術大学の出身者 全国の東京芸術大学の出身者 | ||
232 | 増田正宗 | Wikipedia |
増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は、明治から昭和にかけての日本画家、本名は久太郎。実業家の増田通二の父。 | ||
233 | 川村吾蔵 | Wikipedia |
川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月17日 - 昭和25年(1950年)3月11日)は、日本の美術家。海外で活躍した国際的彫塑家であり、ニューヨークに多くのモニュメント彫刻を完成させたほか、乳牛像、著名人の胸像製作で高い評価を得た。 | ||
234 | 田代秋鶴 塩尻市 | Wikipedia |
田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日-1946年12月13日)は、長野県出身の書家。名は其次、字は信仁。秋鶴は号で、別号に五千石道人がある。 | ||
235 | 川村驥山 | Wikipedia |
川村 驥山(かわむら きざん、1882年5月20日 - 1969年4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。 | ||
236 | 荻原碌山 | Wikipedia |
荻原碌山(おぎわら ろくざん、1879年(明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。 | ||
237 | 菊池契月 | Wikipedia |
菊池 契月(きくち けいげつ、1879年11月14日 - 1955年9月9日)は、明治後期から昭和中期にかけての日本画家。本名菊池(旧姓細野)完爾。 | ||
238 | 一條成美 松本市 | Wikipedia |
一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月25日 - 1911年3月16日)は、明治時代の日本の画家。 | ||
239 | 武井真澂 諏訪市 | Wikipedia |
武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月24日 - 1957年(昭和32年)6月3日)は、日本の山岳画家。本名は真澄。 | ||
240 | 菱田春草 飯田市 | Wikipedia |
菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。 | ||
東京芸術大学出身 長野県出身の東京芸術大学の出身者 全国の東京芸術大学の出身者 | ||
241 | 池上秀畝 伊那市 | Wikipedia |
池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年10月10日 - 1944年5月26日)は、明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意とした。 | ||
242 | 西郷孤月 松本市 | Wikipedia |
西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23日 - 大正元年(1912年)8月31日)は、明治期の日本画家、美術教育者である。本名は規(めぐる)。日本美術院の創設者のひとり。 | ||
243 | 比田井天来 | Wikipedia |
比田井天来(ひだい てんらい、1872年3月2日(明治5年1月23日) - 1939年1月4日)は、日本の書道家。「現代書道の父」と呼ばれる。本名・鴻。雅号は天来、別号の画沙(かくさ)、大朴(たいぼく)も用いる。 | ||
二松學舍大学出身 長野県出身の二松學舍大学の出身者 全国の二松學舍大学の出身者 | ||
244 | 山本凌亭 山ノ内町 | Wikipedia |
山本 凌亭(やまもと りょうてい、1865年10月5日(慶応元年10月5日) - 1938年(昭和13年)11月11日)は、日本の南宗画家。児玉果亭の門人。果亭の門人は数多くあったが最後まで門人として続いた人は山本凌亭一人である。果亭は「自分を凌ぐ」と期待し凌亭という号を与えた。本名は山本 祐善(やまもと ゆうぜん)。 | ||
245 | 山本龍洞 箕輪町 | Wikipedia |
山本 龍洞(やまもと りゅうどう、弘化2年10月27日(1845年11月26日) - 大正2年(1913年)9月28日)は、明治時代の浮世絵師、日本画家。 | ||
246 | 木下靜涯 駒ヶ根市 | Wikipedia |
木下 靜涯(きのした せいがい、明治18年(1887年5月16日) - 昭和63年(1988年)8月)は、大正から昭和時代にかけて主に日本統治時代の台湾で活動した日本の画家。本名は木下源重郎。台展審査員、府展審査員を歴任。 |
政治家・議員・首長
247 | 下平正一 塩尻市 | Wikipedia |
下平 正一(しもだいら しょういち、1918年1月10日 - 1995年8月25日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(10期)。 | ||
248 | 小林武治 小諸市 | Wikipedia |
小林 武治(こばやし たけじ、1899年(明治32年)8月28日 - 1988年(昭和63年)10月12日)は、昭和期の政治家。静岡県知事・厚生大臣・郵政大臣・法務大臣。参議院議員3期。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
249 | 今村忠助 | Wikipedia |
今村 忠助(いまむら ちゅうすけ、1899年2月 - 1954年12月16日)は、衆議院議員(4期)。自由党吉田派。 | ||
250 | 相馬敏夫 | Wikipedia |
相馬 敏夫(そうま としお、1898年(明治31年)7月6日 - 1980年(昭和55年)2月24日[2])は、日本の大蔵官僚、実業家。官選栃木県知事、明治製糖社長。旧姓・上平。 | ||
251 | 西村彰一 | Wikipedia |
西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5月 - 1958年(昭和33年)11月24日)は、日本の農林官僚、教育者、政治家。富山県知事、大東文化大学教授、衆議院議員。旧姓・永井。 | ||
252 | 野溝勝 | Wikipedia |
野溝 勝(のみぞ まさる、1898年(明治31年)11月15日 - 1978年(昭和53年)8月22日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員、参議院議員、左派社会党書記長、芦田内閣国務大臣。正三位勲一等瑞宝章。 | ||
法政大学出身 長野県出身の法政大学の出身者 全国の法政大学の出身者 | ||
253 | 降旗徳弥 | Wikipedia |
降旗 徳弥(ふるはた とくや、1898年9月18日 - 1995年9月5日)は、日本の政治家、実業家。信濃日報社長、信越放送取締役、長野放送社長、衆議院議員、第2次吉田内閣の逓信大臣、松本市長などを歴任した。映画監督の降旗康男は三男。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
254 | 増田甲子七 筑北村 | Wikipedia |
増田 甲子七(ますだ かねしち、1898年(明治31年)10月4日 - 1985年(昭和60年)12月21日)は、昭和期の政治家。吉田茂の側近として、運輸大臣、労働大臣、内閣官房長官、自由党幹事長などを歴任。 | ||
京都大学出身 長野県出身の京都大学の出身者 全国の京都大学の出身者 | ||
255 | 田中耕 池田町 | Wikipedia |
田中 耕(たなか こう、1897年(明治30年)7月6日 - 1969年(昭和44年)9月22日)は、日本の政治家・薬剤師。衆議院議員(2期)。右翼活動家。 | ||
256 | 木内四郎 | Wikipedia |
木内 四郎(きうち しろう、1896年(明治29年)7月3日 - 1988年(昭和63年)8月31日)は、日本の政治家、大蔵官僚。科学技術庁長官。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
257 | 小野祐之 辰野町 | Wikipedia |
小野 祐之(おの すけゆき、1895年(明治28年)6月 - 1944年(昭和19年)7月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・小沢。長男は元塩尻市長の小野光洪[3]。 | ||
258 | 早川元 | Wikipedia |
早川 元(はやかわ はじめ、1895年(明治28年)6月21日 - 1970年(昭和45年)8月4日[2])は、日本の内務官僚。官選県知事、海軍司政長官。 | ||
259 | 近藤壌太郎 千曲市 | Wikipedia |
近藤 壌太郎(こんどう じょうたろう、1894年11月13日 - 1977年8月15日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選県知事。 | ||
260 | 今井梧楼 岡谷市 | Wikipedia |
今井 梧楼(いまい ごろう、1892年(明治25年)2月11日 - 1944年(昭和19年)12月29日[3])は、大正から昭和時代前期の政治家。長野県岡谷市長。 | ||
261 | 勝俣稔 | Wikipedia |
勝俣 稔(かつまた みのる、1891年9月5日 - 1969年3月9日)は、参議院議員(1期)。衆議院議員(1期)。厚生省顧問。藤楓協会理事[2][3]。父は、医師で第2代上田市長を務めた。 | ||
262 | 伊藤富雄 諏訪市 | Wikipedia |
伊藤 富雄(いとう とみお、1891年10月23日 - 1968年1月29日)は、日本の政治家、郷土史家。 | ||
263 | 小林次郎 | Wikipedia |
小林 次郎(こばやし じろう、1891年8月13日 - 1967年7月2日)は、日本の官僚。貴族院勅選議員。 | ||
264 | 唐沢俊樹 | Wikipedia |
唐沢 俊樹(からさわ としき、1891年(明治24年)2月10日 - 1967年(昭和42年)3月14日)は、昭和期の日本の内務官僚、政治家。戦前は内務次官、貴族院議員を歴任し、戦後、自由民主党の衆議院議員。第1次岸改造内閣の法務大臣を務める。勲一等瑞宝章。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
265 | 花村四郎 | Wikipedia |
花村 四郎(はなむら しろう、1891年(明治24年)8月30日 - 1963年(昭和38年)7月1日)は日本の弁護士、政治家。衆議院議員。法務大臣(第6代・第7代)を歴任。 | ||
日本大学出身 長野県出身の日本大学の出身者 全国の日本大学の出身者 | ||
266 | 小山邦太郎 小諸市 | Wikipedia |
小山 邦太郎(こやま くにたろう、1889年11月16日 - 1981年3月24日)は、日本の政治家。戦前の長野県会議員から衆議院議員(6期)。戦後、参議院議員(3期)。参議院永年在職議員。初代小諸市長。位階は正三位。勲等は勲一等。 | ||
267 | 青木一男 | Wikipedia |
青木 一男(あおき かずお、1889年(明治22年)11月28日 - 1982年(昭和57年)6月25日)は、日本の政治家、官僚。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
268 | 松本忠雄 | Wikipedia |
松本 忠雄(まつもと ただお、1887年(明治20年)7月2日 - 1947年7月4日[2])は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 | ||
269 | 米倉龍也 安曇野市 | Wikipedia |
米倉 龍也(よねくら りゅうや、1885年(明治18年)8月6日 - 1980年(昭和55年)10月24日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員。 | ||
270 | 篠原英太郎 | Wikipedia |
篠原 英太郎(しのはら えいたろう、1885年(明治18年)10月10日 - 1955年(昭和30年)3月7日)は、日本の内務官僚。林内閣の内務次官、官選県知事、京都市長。 | ||
271 | 下条康麿 | Wikipedia |
下条 康麿(しもじょう やすまろ、1885年(明治18年)1月20日 - 1966年(昭和41年)4月25日)は、日本の政治家、内務官僚、統計学および社会学者。経済学博士。貴族院議員、参議院議員、吉田茂内閣の文部大臣を歴任した。 | ||
272 | 金井清 諏訪市 | Wikipedia |
金井 清(かない きよし、1884年12月7日 - 1966年4月26日)は長野県出身の官僚、政治家。太平洋戦争前は鉄道官僚を歴任し、戦後に長野県諏訪市長を通算2期務めた。 | ||
273 | 木下信 箕輪町 | Wikipedia |
木下 信(きのした まこと、1884年(明治17年)2月8日 - 1959年(昭和34年)6月27日)は、日本の内務官僚、政治家。憲政会系県知事、台湾総督府総務長官、衆議院議員。 | ||
274 | 片倉兼太郎(3代目) 岡谷市 | Wikipedia |
三代目 片倉 兼太郞(さんだいめ かたくら かねたろう、1884年9月20日 - 1947年1月15日)は、日本の実業家、政治家。勲等は勲四等。出生名は片倉 脩一(かたくら しゅういち)。 | ||
275 | 丸茂藤平 | Wikipedia |
丸茂 藤平(まるも とうへい、1882年(明治15年)3月25日 - 1956年(昭和31年)[2])は、日本の内務官僚、官選岩手県知事。旧姓・両角[3]。 | ||
276 | 三沢寛一 伊那市 | Wikipedia |
三沢 寛一(みさわ かんいち、1882年(明治15年)9月 - 1968年(昭和43年)7月15日[2])は、日本の文部・内務官僚、政治家。北海道札幌市長、山形県知事、島根県知事、札幌観光協会長[3]。 | ||
277 | 高橋保 安曇野市 | Wikipedia |
高橋 保(たかはし たもつ、1882年(明治15年)3月8日[注 1] - 1972年(昭和47年)12月9日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員。 | ||
278 | 篠原和市 | Wikipedia |
篠原 和市(しのはら わいち、1881年(明治14年)3月29日 - 1930年(昭和5年)8月14日[2])は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 | ||
279 | 塚原嘉藤 | Wikipedia |
塚原 嘉藤(つかはら よしふじ、1881年(明治14年)10月22日 – 1930年(昭和5年)11月13日[2])は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 | ||
280 | 小坂順造 長野市 | Wikipedia |
小坂 順造(こさか じゅんぞう、1881年3月30日 - 1960年10月16日)は、日本の実業家、政治家。信越化学工業及び東信電気及び長野電灯創業者。長野県生まれ。 | ||
281 | 米窪満亮 | Wikipedia |
米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月16日 - 1951年(昭和26年)1月16日)は、日本の労働運動家、小説家、政治家。日本海員組合副会長を経て、戦後、日本社会党に所属し、片山内閣の国務大臣、初代労働大臣を歴任した。小説家としての筆名は「米窪太刀雄」がある。 | ||
東京海洋大学出身 長野県出身の東京海洋大学の出身者 全国の東京海洋大学の出身者 | ||
282 | 赤池濃 坂城町 | Wikipedia |
赤池 濃(あかいけ あつし、1879年1月27日 - 1945年9月10日)は、日本の内務官僚、政治家。静岡県知事、警視総監、貴族院議員。 | ||
283 | 小林暢 長野市 | Wikipedia |
小林 暢(こばやし とおる、1879年〈明治12年〉10月19日 - 1935年〈昭和10年〉1月2日[3])は、明治後期から昭和時代の日本の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。従六位[4]。 | ||
284 | 植原悦二郎 | Wikipedia |
植原 悦二郎(うえはら えつじろう、1877年(明治10年)5月15日 - 1962年(昭和37年)12月2日)は、日本の政治家・政治学者。国務大臣・内務大臣。 | ||
285 | 渡邊千冬 松本市 | Wikipedia |
渡邊 千冬[注 1](わたなべ ちふゆ、1876年(明治9年)5月1日 - 1940年(昭和15年)4月18日)は、明治期の政治家、実業家。書家としての号は「無劔(むけん)」。 | ||
286 | 小山完吾 | Wikipedia |
小山 完吾(こやま かんご、明治8年(1875年)5月18日 - 昭和30年(1955年)7月23日)は、日本のジャーナリスト・政治家。貴族院勅選議員、衆議院議員、時事新報社長。交友倶楽部所属。 | ||
慶應義塾大学出身 長野県出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
287 | 樋口秀雄 飯田市 | Wikipedia |
樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - 1929年6月6日)は、評論家、社会学者、政治家。本名は樋口秀雄、別号は暁雪。1909年に文芸革新会を興し、自然主義批判の文芸評論家として活躍した一方で、1915年には衆議院議員に当選し、政治家としても活動した。 | ||
288 | 林七六 岡谷市 | Wikipedia |
林 七六(はやし しちろく、1875年(明治8年)9月 - 1950年(昭和25年)2月9日[3])は、大正から昭和時代前期の政治家、衆議院議員、貴族院多額納税者議員、実業家。長野県岡谷市長。 | ||
289 | 春日俊文 | Wikipedia |
春日 俊文(かすが としふみ、1873年(明治6年)4月20日 - 1937年(昭和12年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会)(2期)。 | ||
法政大学出身 長野県出身の法政大学の出身者 全国の法政大学の出身者 | ||
290 | 山田禎三郎 岡谷市 | Wikipedia |
山田 禎三郎(やまだ ていざぶろう、1871年4月22日(明治4年3月3日) - 1930年(昭和5年)10月6日)は、日本の教育者、実業家、衆議院議員。 | ||
291 | 丸山浪弥 安曇野市 | Wikipedia |
丸山 浪弥(まるやま なみや、1871年5月7日(明治4年3月18日) - 1944年(昭和19年)11月21日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。 | ||
292 | 遠山房吉 諏訪市 | Wikipedia |
遠山 房吉(とおやま[注 1] ふさきち、1869年3月20日(明治2年2月8日) - 1939年(昭和14年)3月17日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員。 | ||
293 | 原嘉道 須坂市 | Wikipedia |
原 嘉道(はら よしみち(かどう) 1867年3月23日(慶応3年2月18日) - 1944年8月7日)は、日本の官僚、弁護士、法学者、政治家。第9代中央大学学長。田中義一内閣の司法大臣や枢密院議長を歴任した。男爵、法学博士。幼名は亀太郎。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
294 | 小松謙次郎 | Wikipedia |
小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日(文久3年11月23日) - 1932年(昭和7年)10月15日)は、明治・大正期の官僚、政治家、貴族院議員。正三位勲一等。 | ||
慶應義塾大学出身 長野県出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
295 | 西沢正太郎 坂城町 | Wikipedia |
西沢 正太郎(にしざわ しょうたろう、1863年10月21日(文久3年9月9日) - 1910年(明治43年)2月2日[2])は、日本の内務官僚。官選県知事。号・靖軒、獅牢[3]。 | ||
296 | 森山儀文治 塩尻市 | Wikipedia |
森山 儀文治(もりやま ぎぶんじ、1862年4月15日(文久2年3月17日) - 1945年(昭和20年2月9日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 | ||
297 | 矢島浦太郎 | Wikipedia |
矢島 浦太郎(やじま うらたろう、1860年3月4日(安政7年2月12日) - 1917年(大正6年)10月17日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員(5期、立憲同志会)。 | ||
法政大学出身 長野県出身の法政大学の出身者 全国の法政大学の出身者 | ||
298 | 伊藤大八 飯田市 | Wikipedia |
伊藤 大八(いとう だいはち、1858年12月19日(安政5年11月15日) - 1927年(昭和2年)9月10日)は、日本の政治家・実業家。帝国議会衆議院議員(5期)。 | ||
299 | 依田仙右衛門 佐久市 | Wikipedia |
依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈1855年8月9日〉 - 1923年〈大正12年〉)は、明治から大正時代の政治家、貴族院多額納税者議員。長野県北佐久郡南御牧村長。幼名は亀太郎直温。 | ||
300 | 皆川四郎 飯田市 | Wikipedia |
皆川 四郎(みながわ しろう、1852年 - 1911年)は日本の実業家。旧姓は岩崎。幼名は馬之助。 | ||
301 | 寺田祐之 飯山市 | Wikipedia |
寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年12月26日) - 1917年(大正6年)3月14日)は、日本の内務官僚。鳥取・岡山・宮城・広島の各県知事を歴任した。特に広島県知事在任中、県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設立に関わったことで知られる。 | ||
302 | 渡辺国武 | Wikipedia |
渡辺 国武(渡邊 國武、わたなべ くにたけ、1846年3月29日(弘化3年3月3日) - 1919年(大正8年)5月11日)は、日本の官僚、政治家。子爵。旧姓は小池。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。兄は伯爵渡辺千秋。 | ||
303 | 渡辺千秋 | Wikipedia |
渡辺 千秋(渡邉 千秋、わたなべ ちあき、1843年6月17日(天保14年5月20日) - 1921年(大正10年)8月27日)は、幕末の諏訪藩士、明治・大正期の官僚・政治家。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等伯爵[2]。 | ||
304 | 沼田芸平 飯山市 | Wikipedia |
沼田 芸平(ぬまた うんぺい 1829年(文政12年)5月29日 - 1890年(明治23年)8月2日)は、明治時代の洋医師・政治家。大坂の緒方洪庵の適塾で学び、北信濃で最初の洋医となった。県会議員となっての活躍や、自由民権運動での指導者としての役割を果たした。 |
評論家
305 | 橋爪檳榔子 | Wikipedia |
橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月 - 1963年11月8日)は、日本の医師、薬学者、日本における医療評論家の先駆者とされる。本名は恵(めぐみ)。男性。 | ||
千葉大学出身 長野県出身の千葉大学の出身者 全国の千葉大学の出身者 | ||
306 | 岡茂雄 | Wikipedia |
岡 茂雄(おか しげお、1894年 - 1989年9月21日)は、日本の編集者、書店主。大正から昭和初頭の日本に於いて、民族・民俗学や考古学専門の書店「岡書院」、山岳書専門の「梓書房」を経営。学術史上の名著となる多くの書籍、雑誌を世に送り出した。長野県東筑摩郡松本町(現松本市)生まれ。民族学者の岡正雄は弟。静岡県立大学元教授で、都市・交通問題評論家の岡並木は息子。 | ||
307 | 山浦貫一 | Wikipedia |
山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年3月20日 - 1967年9月26日)は新聞記者、政治評論家。 | ||
308 | 山崎斌 | Wikipedia |
山崎斌(やまざき あきら、1892年11月9日 - 1972年6月27日)は、日本の作家、評論家、染織家。「草木染め」の命名者として知られる。 | ||
309 | 清沢洌 | Wikipedia |
清沢 洌(きよさわ きよし、1890年(明治23年)2月8日 - 1945年(昭和20年)5月21日)は、ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。 | ||
310 | 塩沢幸一 | Wikipedia |
塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月5日 - 1943年(昭和18年)11月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。実家は養命酒で有名な養命酒製造で塩沢はその四男。妻すがは代議士・北原阿智之助次女。文芸評論家の中沢臨川は次兄。 | ||
311 | 丸山幹治 長野市 | Wikipedia |
丸山 幹治(まるやまかんじ、男性、明治13年(1880年)5月2日 - 昭和30年(1955年)8月16日) は、ジャーナリスト・政治評論家。 号・侃堂。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
312 | 中島孤島 | Wikipedia |
中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1946年4月9日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。本名は茂一。 | ||
313 | 樋口龍峡 飯田市 | Wikipedia |
樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - 1929年6月6日)は、評論家、社会学者、政治家。 本名は樋口秀雄、別号は暁雪。1909年に文芸革新会を興し、自然主義批判の文芸評論家として活躍した一方で、1915年には衆議院議員に当選し、政治家としても活動した。 | ||
東京帝国大学出身 長野県出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 |
宗教家・思想家・運動家
314 | 八木あき 木曽町 | Wikipedia |
八木 あき(やぎ - 、1895年9月6日-1983年4月30日)は日本の社会運動家。「八木秋子」のペンネームで活動した。 | ||
315 | 本多まつ江 | Wikipedia |
本多まつ江(ほんだ まつえ、1889年(明治22年)12月25日 - 1969年(昭和44年)4月26日。教師であり、僧侶夫人、司法保護司、教誨師。晩年『死刑囚の母』と呼ばれた。旧姓は赤羽。 | ||
316 | 棚橋小虎 松本市 | Wikipedia |
棚橋 小虎(たなはし ことら、1889年1月14日 - 1973年2月20日)は日本の労働運動家、政治家。新人会などの学生運動、友愛会、労働総同盟などの労働運動にかかわり、日本労農党や社会党などの結成に関与した。 | ||
317 | 金井為一郎 | Wikipedia |
金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 - 1963年5月22日)は日本の牧師。 | ||
318 | 平出慶一 富士見町 | Wikipedia |
平出 慶一(ひらいで けいいち、1882年(明治15年)8月15日 - 1975年)は、日本の牧師、神学校教師。日本福音キリスト教団の創設者。 | ||
319 | 本多恵隆 高山村 | Wikipedia |
本多 恵隆(ほんだ えりゅう、1876年(明治9年)10月30日 - 1944年(昭和19年)5月18日)は、長野県出身の西本願寺(浄土真宗本願寺派本山)の僧。大谷光瑞が中央アジアに派遣した第一次大谷探検隊(1902年 - 1904年)に加わった。 | ||
320 | 筧克彦 | Wikipedia |
筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日(明治5年11月28日) - 1961年(昭和36年)2月27日)は、日本の法学者、神道思想家。専門は公法学、法哲学(法理学)、憲法学。 | ||
東京大学出身 長野県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
321 | 中村太八郎 山形村 | Wikipedia |
中村 太八郎(なかむら たはちろう、慶応4年2月20日(1868年3月13日) - 昭和10年(1935年)10月17日)は、日本の普選運動の活動家。 | ||
322 | 桜井平吉 軽井沢町 | Wikipedia |
桜井 平吉(さくらい へいきち、嘉永6年3月12日(1853年4月19日) - 大正9年(1920年)8月18日)は明治時代の自由民権運動家。 諱は武貞。飯田事件の首謀者の一人。 |
俳人・歌人・詩人
323 | 伊東月草 伊那市 | Wikipedia |
伊東 月草(いとう げっそう、1899年(明治32年)12月17日 - 1946年(昭和21年)12月4日)は、長野県出身の日本の俳人。本名は秀治(ひでじ)。 | ||
324 | 藤森朋夫 | Wikipedia |
藤森朋夫(ふじもり ともお、1898年7月18日-1969年8月29日)は、歌人、国文学者。 | ||
325 | 小口太郎 | Wikipedia |
小口太郎(おぐち たろう、1897年(明治30年)8月30日 - 1924年(大正13年)5月16日)は、長野県岡谷市生まれの科学者、歌人。第三高等学校、東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同大学航空研究所入所。大学在学中に電信電話に関する発明をし、日本を始め諸外国に特許申請をし、許可を得ている。 | ||
326 | 土田耕平 | Wikipedia |
土田 耕平(つちだ こうへい、1895年(明治28年)6月10日 - 1940年(昭和15年)8月12日)は、日本の歌人、童話作家。 | ||
327 | 松井芒人 | Wikipedia |
松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月25日 - 1980年12月27日)は、日本の歌人、教育者である。 | ||
信州大学出身 長野県出身の信州大学の出身者 全国の信州大学の出身者 | ||
328 | 栗林一石路 | Wikipedia |
栗林 一石路(くりばやし いっせきろ、1894年(明治27年)10月14日 - 1961年(昭和36年)5月25日)は、日本の俳人である。プロレタリア俳句運動の中心的存在としてだけでなく、小林一茶の評論研究家としても知られる。本名は栗林農夫(くりばやしたみお)。 | ||
329 | 小穴隆一 | Wikipedia |
小穴 隆一(おあな りゅういち、1894年11月28日 - 1966年4月24日)は、日本の洋画家、随筆家、俳人。俳号は一游亭。 | ||
330 | 今井邦子 下諏訪町 | Wikipedia |
今井 邦子(いまい くにこ、明治23年(1890年)5月31日 - 昭和23年(1948年)7月15日、旧姓山田、本名くにえ)は、徳島市出身の「アララギ」の歌人、小説家。後に短歌誌「明日香」を創刊した。元通産省事務次官の両角良彦は甥にあたる。 | ||
331 | 日夏耿之介 | Wikipedia |
日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年(明治23年)2月22日 - 1971年(昭和46年)6月13日)は、日本の詩人、英文学者。本名は樋口國登(ひぐち くにと。通称は圀登)。号は夏黄眠、黄眠道人、黄眠堂主人など30数種類を数える。広範な学識と多岐にわたる文学活動で「学匠詩人」と称される。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
332 | 金原省吾 茅野市 | Wikipedia |
金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1日 - 1958年〈昭和33年〉8月2日)は、日本の美学者、美術史学者。昭和期の歌人 帝国美術学校教授。旧姓は河西。 | ||
333 | 若山喜志子 塩尻市 | Wikipedia |
若山 喜志子(わかやま きしこ、1888年5月28日 - 1968年8月19日)は日本の歌人。若山牧水の妻。旧姓は太田。本名は喜志。妹の潮みどりも歌人。 | ||
334 | 四賀光子 | Wikipedia |
四賀光子(しが みつこ、1885年4月21日 - 1976年3月23日)は、歌人。本名は有賀みつ。夫は太田水穂。「四賀」は父の出身地諏訪郡四賀村から。 | ||
335 | 茅野蕭々 諏訪市 | Wikipedia |
茅野 蕭々(ちの しょうしょう、本名儀太郎、1883年3月18日 - 1946年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人。 | ||
336 | 田中弥助 | Wikipedia |
田中 弥助(たなか やすけ、1883年3月6日 - 1943年10月9日)は日本の出版実業家、俳人、衆議院議員(民政党)。雅号は美穂(びすい)。 | ||
337 | 森山汀川 富士見町 | Wikipedia |
森山 汀川(もりやま ていせん、1880年9月30日 - 1946年9月17日)は、日本の歌人。本名:森山 藤一。 | ||
338 | 吉江喬松 塩尻市 | Wikipedia |
吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。 | ||
339 | 臼田亞浪 | Wikipedia |
臼田 亞浪(うすだ あろう、1879年(明治12年)2月1日 - 1951年(昭和26年)11月11日)は日本の俳人。本名は臼田卯一郎(ういちろう)。 | ||
明治大学出身 長野県出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
340 | 斎藤瀏 | Wikipedia |
斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年4月16日 - 1953年7月5日)は、日本の陸軍軍人、歌人。同じく歌人の斎藤史は長女。 | ||
341 | 窪田空穂 | Wikipedia |
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人、国文学者。日本芸術院会員。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 | ||
早稲田大学出身 長野県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
342 | 太田水穂 | Wikipedia |
太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日)は、日本の歌人、国文学者。本名は太田貞一、別号・みづほのや。 | ||
信州大学出身 長野県出身の信州大学の出身者 全国の信州大学の出身者 | ||
343 | 島木赤彦 | Wikipedia |
島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月16日 - 1926年(大正15年)3月27日)は、明治・大正時代のアララギ派歌人。本名は久保田俊彦。別号、柿乃村人。 | ||
信州大学出身 長野県出身の信州大学の出身者 全国の信州大学の出身者 | ||
344 | 桃澤如水 | Wikipedia |
桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月14日 - 1906年(明治39年)8月29日)は、歌人で日本画家。本名は桃澤 重治(ももざわ しげはる)、画名は如水(にょすい)または桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)といい、筆名を三六、三六軒、子脩(ししゅう)などと称した。その祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる。 | ||
345 | 島崎藤村 山口村 | Wikipedia |
島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日)- 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本の詩人、小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)生まれ。 | ||
明治学院大学出身 長野県出身の明治学院大学の出身者 全国の明治学院大学の出身者 | ||
346 | 横川唐陽 諏訪市 | Wikipedia |
横川 唐陽(よこかわ とうよう、1868年1月14日(慶応3年12月20日) - 1929年(昭和4年)12月12日)は、日本の漢詩人、陸軍軍医。本名は徳郎。雅号は唐陽山人。 | ||
347 | 藤森桂谷 安曇野市 | Wikipedia |
藤森 桂谷(ふじもり けいこく、1835年10月6日 - 1905年7月26日)は、南画の画家、歌人、啓蒙家。現在の長野県安曇野市出身。 | ||
348 | 高島章貞 安曇野市 | Wikipedia |
高島 章貞(たかしま しょうてい/あきさだ、1804年 - 1869年)は、江戸時代の医師、桂園派歌人、幕末の志士。幼名を挹武、字を以徳、歌人としては星園と号した。 | ||
349 | 大島蓼太 飯島町 | Wikipedia |
大島 蓼太(おおしま りょうた、享保3年(1718年) - 天明7年9月7日(1787年10月17日))は、江戸時代の俳人。本姓は吉川。諱は陽喬、通称は平助、雅号は雪中庵、里席、宜来、老鳥、豊来、空摩など多数。与謝蕪村、加舎白雄などと共に中興五傑の一人。 |
その他の職業
350 | 木村岳風 諏訪市 | Wikipedia |
木村 岳風(きむら がくふう、1899年9月20日-1952年7月1日)は、日本の吟詠家。本名は松木 利次(まつき としつぐ)。日本詩吟学院の創設者で、近代吟詠の祖と称される。著書に『皇漢名詩の吟じ方』などがある。 | ||
351 | 新村英一 諏訪市 | Wikipedia |
新村 英一(にむら えいち、1897年3月25日 - 1979年4月2日)は舞踊家である。本名は、三木富蔵。「新村英一」は、まだ舞踊家になる前、ボストンに向かう列車の中で新聞記事をヒントにつけた名前であり、「Nimura Yeichi」と表記する。 | ||
352 | 荻原豊次 軽井沢町 | Wikipedia |
荻原 豊次(おぎわら とよじ、1894年 - 1978年)は日本の篤農家。 | ||
353 | 北沢種一 諏訪市 | Wikipedia |
北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年(明治13年)1月13日 - 1931年(昭和6年)12月9日)は、日本の教育者。 | ||
354 | 手塚縫蔵 塩尻市 | Wikipedia |
手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 1954年8月16日)は日本の教育者。基督者。 | ||
355 | 栗岩英治 飯山市 | Wikipedia |
栗岩 英治(くりいわ えいじ、1878年10月1日 - 1946年9月11日)は日本の郷土史家、新聞記者。号は酔古など。 | ||
356 | 小松武平 茅野市 | Wikipedia |
小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11日 - 1930年(昭和5年)9月5日)は、長野県の教育者。 長野県上田中学(現長野県上田高等学校)、長野県諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)、長野県松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)校長を務めた 。 | ||
357 | 岡村千馬太 安曇野市 | Wikipedia |
岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 1936年6月15日)は日本の教育者。号は天機。 | ||
358 | 小松倍一 塩尻市 | Wikipedia |
小松 倍一(こまつ ばいいち、1873年(明治6年)9月15日 - 没年不詳)は、日本の教育者。 | ||
359 | 岩垂今朝吉 岡谷市 | Wikipedia |
岩垂 今朝吉(いわだれ けさきち、1865年10月10日 - 1917年7月16日)は日本の教育家。 | ||
360 | 和田英 長野市 | Wikipedia |
和田 英(わだ えい、安政4年8月21日(1857年10月8日) - 昭和4年(1929年)9月26日)は、官営富岡製糸場の伝習工女。『富岡日記』を著した。旧姓は横田。 | ||
361 | 上島正 諏訪市 | Wikipedia |
上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7月6日) - 1919年(大正8年))は明治時代の札幌開拓者。信濃国諏訪藩出身。江戸に出て商家に奉公し、行商人、測量師を経て北海道に渡り、札幌で初めて水田稲作に成功、東皐園で花菖蒲等の栽培を行った。 | ||
362 | 松尾多勢子 豊丘村 | Wikipedia |
松尾 多勢子(まつお たせこ、文化8年8月5日(1811年9月22日)- 明治27年(1894年)6月10日)は、幕末期の尊皇派女性志士。島崎藤村の「夜明け前」にも活写されている。 |