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このサイトに登録されている「栃木県出身で18年生まれ」の有名人の数:71人
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宝塚・女優・俳優・声優・ナレーター・歌舞伎・能楽・狂言
1 | 五味国太郎 那須烏山市 | Wikipedia |
五味 国太郎(ごみ くにたろう、1875年1月8日 - 1922年4月28日)は、日本の俳優である。 |
舞台・演劇・映画・ドラマ・脚本・プロデューサー・ディレクター
2 | 若山治 足利市 | Wikipedia |
若山 治(わかやま おさむ、1886年2月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である[3][4][5]。本名同じ。雅号を若山 南柯(わかやま なんか)とする。監督作はいっさい現存していないが[6][7]、溝口健二の映画界入りのきっかけとなり、師となったことで名を残す[8]。 |
ジャーナリスト
3 | 山手樹一郎 那須塩原市 | Wikipedia |
山手 樹一郎(やまて きいちろう、1899年2月11日 - 1978年3月16日)は、日本の小説家。 | ||
4 | 千葉省三 宇都宮市 | Wikipedia |
千葉 省三(ちば しょうぞう、1892年11月27日 - 1975年10月13日)は、児童文学者。雑誌『童話』の編集者をつとめた。 | ||
5 | 山本有三 栃木市 | Wikipedia |
山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年(明治20年)7月27日 - 1974年(昭和49年)1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家。本名は山本 勇造(やまもと ゆうぞう)。日本芸術院会員、文化勲章受章者。 | ||
東京大学出身 栃木県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 |
格闘技
6 | 栃木山守也 栃木市 | Wikipedia |
栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身の元大相撲力士。第27代横綱。本名は中田 守也(なかた もりや)(旧姓:横田)。 | ||
7 | 岩木山孫平 宇都宮市 | Wikipedia |
岩木山孫平(いわきやままごへい、1890年8月13日-1934年6月25日)は、清見潟部屋に所属した元力士。7代清見潟。本名は横越孫平(旧姓兼子)。現在の栃木県宇都宮市出身。171cm、87kg。最高位は東前頭6枚目。 | ||
8 | 渡辺勇次郎 矢板市 | Wikipedia |
渡辺 勇次郎(わたなべ ゆうじろう、男性、1889年11月11日 - 1956年6月28日)は、日本のプロボクサー。栃木県矢板市出身。日本最初の本格的ボクシングジムを創り徐廷権、川田藤吉、臼田金太郎、高橋一男、田中禎之助、吉本武雄、熊谷二郎、ピストン堀口、笹崎僙、(本田明彦の実父本田明の同級生で同い年の盟友、後に自身の実父の親友田辺宗英を初代会長に帝拳創設し初代筆頭師範)荻野貞行、後の不二ボクシングジム初代会長岡本不二など幾多の名選手を育て日本における「ボクシングの父」と呼ばれる。ヤング・ワタナベのリングネームでカリフォルニア州ライト級チャンピオンに。 | ||
9 | 若湊義正 栃木市 | Wikipedia |
若湊 義正(わかみなと よしまさ、1888年3月14日 - 1941年11月12日)は、高砂部屋に所属した元力士。4代富士ヶ根。本名は北条 義(旧姓岡本)。現在の栃木県栃木市出身。167cm、96kg。最高位は西小結。得意技は押し、右四つ、寄り。 | ||
10 | 野州山孝市 真岡市 | Wikipedia |
野州山孝市(やしゅうざんこういち、1878年8月2日-1936年1月23日)は、尾上部屋、出羽海部屋に所属した元力士。本名は直井幸一。現在の栃木県真岡市(旧芳賀郡)出身。170cm、84kg。最高位は西前頭10枚目。 | ||
11 | 木村庄之助 (20代) 鹿沼市 | Wikipedia |
20代木村庄之助(20だい きむらしょうのすけ、1876年12月3日 - 1940年3月9日)は、大相撲の立行司。 | ||
12 | 木村庄之助 鹿沼市 | Wikipedia |
20代 木村 庄之助(にじゅうだい きむらしょうのすけ、1876年12月3日 - 1940年3月9日)は、大相撲の立行司。 | ||
13 | 東関庄助 足利市 | Wikipedia |
東関庄助(あずまぜきしょうすけ、1824年-1885年7月10日)は、東関部屋に所属した元力士。5代東関。 本名は東関庄助(旧名は不明)。現在の栃木県足利市(下野国安蘇郡)出身。身長、体重不明。最高位は東関脇。 |
野球
14 | 太田健一 栃木市 | Wikipedia |
太田 健一(おおた けんいち、1918年 - 1944年?)は、栃木県出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。 |
囲碁・将棋・麻雀
15 | 菅谷北斗星 栃木市 | Wikipedia |
菅谷 北斗星(すがや ほくとせい、1895年11月27日 - 1962年1月21日)は、日本の将棋観戦記者の草分け。本名菅谷要。 |
作家・小説家・エッセイ・文筆・翻訳家・編集者・評論家
16 | 江口渙 那須烏山市 | Wikipedia |
江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年1月18日)は、日本の小説家である。東京麹町生まれであるが、出身地は父の故郷である栃木県烏山町である。本名は同表記で「きよし」であるが、戦後は「かん」と改めた。父の江口襄は陸軍の軍医で、東大医学部で森鴎外と同期であった。 |
建築家・建築学者・技術者
17 | 田上義也 | Wikipedia |
田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日 - 1991年(平成3年)8月17日)は、日本の建築家、音楽家。 | ||
早稲田大学出身 栃木県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
18 | 佐藤功一 | Wikipedia |
佐藤 功一(さとう こういち、1878年7月2日 - 1941年6月22日)は、日本の建築家。 | ||
東京大学出身 栃木県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 |
経営者・実業家
19 | 池田勇人 宇都宮市 | Wikipedia |
池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)12月3日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚、全日本居合道連盟創立者と初代会長。位階は正二位。勲等は大勲位。 | ||
20 | 小堀保三郎 | Wikipedia |
小堀 保三郎(こぼり やすざぶろう、1899年8月25日 - 1975年8月30日)は日本の実業家ならびに自動車技術者。現代において世界中の自動車に至極当然のように装着されているエアバッグを発明した第一人者である。2006年、特定非営利活動法人「日本自動車殿堂」に殿堂入り。 | ||
21 | 柳田誠二郎 足利市 | Wikipedia |
柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年(明治26年)9月2日 - 1993年(平成5年)11月18日)は、日本の実業家。日本航空社長を務めた。 | ||
22 | 菊池寛実 那珂川町 | Wikipedia |
菊池寛実(きくちひろみ、通称:かんじつ、1885年(明治18年)4月28日~1967年(昭和42年)3月12日)は日本の実業家であり投資家。戦前は辰ノ口炭鉱、三友炭鉱、高萩炭鉱などを創業し、戦後は鮎川義介より日本炭鉱を買収。一時期には南俊二、大谷米太郎と並んで「日本の三大億万長者」の一人に数えられた。 | ||
23 | 植竹龍三郎 大田原市 | Wikipedia |
植竹 龍三郎(うえたけ りゅうざぶろう、1880年(明治13年)8月15日 - 1942年(昭和17年)7月20日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会)[3][4]、僧侶(僧名は龍山)[5]、実業家。帝国商業[3]、朝鮮炭鉱、塩原電車、日光登山鉄道、宇都宮信託、下野電力興業、西澤金山、中宮祠電力各社長[4][6]。海馬島漁業拓殖、植竹商業各取締役[3]。朝鮮清津商業会議所会頭[5]。 | ||
24 | 宮島清次郎 佐野市 | Wikipedia |
宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)1月20日 – 昭和38年(1963年)9月6日)は、大正・昭和期の経営者・財界人・代議士。元日清紡績社長・会長、元日本工業倶楽部理事長。 | ||
東京帝国大学出身 栃木県出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
25 | 小平浪平 | Wikipedia |
小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1951年10月5日)は、日本の技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。 | ||
東京大学出身 栃木県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
26 | 岩崎清七 栃木市 | Wikipedia |
3代岩崎 清七(いわさき せいしち、1865年12月18日(元治元年12月18日) - 1946年(昭和21年)4月11日)は、明治期の実業家。磐城セメント(住友大阪セメント)を創業した。 | ||
27 | 矢板武 矢板市 | Wikipedia |
矢板 武(やいた たけし、1849年12月28日(嘉永2年11月14日) - 1922年(大正11年)3月22日)は下野国・栃木県の実業家。那須疏水の開削で知られる。 |
医師・看護師
28 | 高橋房次 小山市 | Wikipedia |
高橋 房次(たかはし ふさじ、1882年12月18日 - 1960年6月29日)は、日本の医師。高木兼寛の「病気を診ずして病人を診よ」の言葉に感銘を受け、北海道白老町で地域医療に貢献した。アイヌも和人も差別せず、貧しい者からは治療代もとらなかった。患者の往診の依頼があれば大雪や吹雪の中でも深夜でも絶対に断らなかった。自身が賞を贈られることについては信条に反することであった。「コタンの赤ひげ」とか「コタンのシュバイツァー」とも呼ばれる。白老小学校に胸像が建てられた。 |
軍人
29 | 秋草俊 | Wikipedia |
秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年(明治27年)4月6日 - 1949年(昭和24年)3月22日)は、昭和期の日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸軍士官学校(26期)卒。陸軍中野学校校長(初代)を務めた。 | ||
東京外国語大学出身 栃木県出身の東京外国語大学の出身者 全国の東京外国語大学の出身者 | ||
30 | 小磯國昭 宇都宮市 | Wikipedia |
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。 | ||
31 | 森田仲造 壬生町 | Wikipedia |
森田 仲造(もりた なかぞう、1856年(安政3年11月3日) - 1927年(昭和2年6月13日)は、下野国壬生藩(現在の栃木県)出身の人物。元壬生藩士。陸軍伍長。 | ||
32 | 大沼渉 大田原市 | Wikipedia |
大沼 渉(おおぬま わたる、1844年(天保15年8月) - 1899年10月14日)は、幕末の黒羽藩士。明治期の陸軍軍人。陸軍少将。男爵。 |
官僚
33 | 北島秀朝 那珂川町 | Wikipedia |
北島 秀朝(きたじま ひでとも、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1877年(明治10年)10月10日)は、幕末の水戸藩士・神職、明治期の内務官僚。県令。旧姓・益子。幼名・孝之助、時之助、千太郎。 |
学者・教授・准教授
34 | 小菅健吉 さくら市 | Wikipedia |
小菅 健吉(こすげ けんきち、1897年3月12日 - 1977年5月30日)は、日本の教育者。栃木県出身。盛岡高等農林学校を卒業。高等農林学校時代、同窓生であった宮沢賢治 と学内の文芸同人誌『アザリア』のメンバーとして親交を持った。 | ||
岩手大学出身 栃木県出身の岩手大学の出身者 全国の岩手大学の出身者 | ||
35 | 田嶋隆純 栃木市 | Wikipedia |
田嶋 隆純(たじま りゅうじゅん、1892年〈明治25年〉1月9日 - 1957年〈昭和32年〉7月24日)は、チベット語に訳された仏教文献の精査解読とそれに基づくチベット訳と漢訳の仏典対照研究の先駆けとなった仏教学者。大正大学教授。真言宗豊山派大僧正。 | ||
36 | 田村律之助 栃木市 | Wikipedia |
田村 律之助(たむら りつのすけ、1867年7月25日(慶応3年6月24日) - 1932年(昭和7年))は、下野国都賀郡西水代村(現・栃木県栃木市大平町西水代)出身の農学者。栃木県におけるビール麦栽培の基礎を作った人物として知られる。 | ||
37 | 森鴎村 栃木市 | Wikipedia |
森 鴎村(もり おうそん、1831年(天保2年) - 1907年(明治40年)1月22日)は、幕末期ならびに明治期の儒学者。下野国都賀郡藤岡村(現・栃木県栃木市藤岡町藤岡)出身。諱は保定(やすさだ)で字は士興(しきょう)。通称は定吉(さだきち)。 |
研究者・研究家・発明家
38 | 君島一郎 大田原市 | Wikipedia |
君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月16日 - 1975年(昭和50年)4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。 | ||
東京帝国大学出身 栃木県出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 |
画家・写真家・書道家・彫刻家・陶芸家
39 | 浜田庄司 益子町 | Wikipedia |
濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年(明治27年)12月9日 - 1978年(昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家。次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫(晋作の次男)の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。 | ||
40 | 清水董三 栃木市 | Wikipedia |
清水 董三(しみず とうぞう、1893年(明治26年)8月1日 - 1970年(昭和45年)12月8日)は、日本の外交官、書家。兄は画家の清水登之。 | ||
41 | 牧島如鳩 足利市 | Wikipedia |
牧島 如鳩(まきしま にょきゅう、明治25年(1892年)6月25日 - 昭和50年1975年)12月31日)は、栃木県出身の画家で、日本ハリストス正教会の自給伝道者。本名は省三(せいぞう)、聖名はパウェル・ペートロイチ。若いころの号は朝陽、1926年(昭和元年)頃から如鳩、1962年(昭和37年)からは如九と名乗った。伝道の傍らイコンも手がける一方、観音や達磨など仏画や日本の八百万神のみならず、両者を習合した仏耶一如とも言える独特の絵を描いた。 | ||
42 | 清水登之 栃木市 | Wikipedia |
清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 - 1945年(昭和20年)12月7日)は、栃木県出身の画家。 | ||
43 | 小杉放庵 日光市 | Wikipedia |
小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)明治・大正・昭和時代の洋画家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。俳優の小杉義男は甥。 | ||
44 | 小杉放菴 日光市 | Wikipedia |
小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は、明治・大正・昭和時代の洋画家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。 | ||
45 | 飯塚雲擧 栃木市 | Wikipedia |
飯塚 雲擧(いいづか うんきょ、1865年3月31日 - 没年不明)は、明治時代の東京の書家。 | ||
46 | イザベラ・バード 鹿沼市 | Wikipedia |
イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年(天保2年)10月15日 - 1904年(明治37年)10月7日)は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリスト[4]。ファニー・ジェーン・バトラー(英語版)と共同で、インドのジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立した[5]。バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出された[6]。1881年(明治14年)に妹の侍医であったジョン·ビショップと結婚し、イザベラ・バード・ビショップ(Isabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称された[7]。 | ||
47 | 田崎草雲 足利市 | Wikipedia |
田崎 草雲(たざき そううん、1815年11月15日(文化12年10月15日) - 1898年(明治31年)9月1日)は、日本の南画画家。名は芸(うん)。字は草雲。弟子に小室翠雲がいる。司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデル。 |
政治家・議員・首長
48 | 船田享二 宇都宮市 | Wikipedia |
船田 享二(ふなだ きょうじ、1898年(明治31年)1月13日 - 1970年(昭和45年)3月14日)は、日本の法学者、教育者、政治家。法学の専門はローマ法。教育者として作新学院院長。政治家として衆議院議員(当選3回)、行政管理庁長官、賠償庁長官。政治家一家として知られた「船田三兄弟」の次男で、衆議院議長となった船田中は兄、自治大臣や運輸大臣などを歴任した藤枝泉介は実の弟にあたる。また夫人の船田文子は主婦連副会長をつとめた。 | ||
東京大学出身 栃木県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
49 | 浜野清吾 | Wikipedia |
浜野 清吾(はまの せいご、1898年(明治31年)4月28日 - 1990年(平成2年)6月24日)は、大正・昭和期の日本の男性政治家・実業家・労働運動家。元行政管理庁長官・法務大臣。 | ||
50 | 森下國雄 | Wikipedia |
森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 1975年5月7日 )は、日本の政治家。衆議院議員(10期)。 | ||
51 | 船田中 宇都宮市 | Wikipedia |
船田 中(ふなだ なか、1895年(明治28年)4月24日 - 1979年(昭和54年)4月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選15回)。第51代・第56代衆議院議長、自由民主党副総裁、従二位勲一等旭日桐花大綬章。 | ||
東京大学出身 栃木県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
52 | 村瀬直養 宇都宮市 | Wikipedia |
村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1968年8月8日)は、日本の商工官僚、政治家、実業家。商工次官、貴族院議員、法制局長官、綜合計画局長官。 | ||
東京帝国大学出身 栃木県出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
53 | 君島清吉 栃木市 | Wikipedia |
君島 清吉(きみじま せいきち、1889年(明治22年)4月16日 - 1966年(昭和41年)1月11日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 | ||
54 | 飯塚茂 栃木市 | Wikipedia |
飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 | ||
55 | 湯沢三千男 | Wikipedia |
湯沢 三千男(ゆざわ みちお、明治21年(1888年)5月20日 - 昭和38年(1963年)2月21日)は、大正・昭和期の日本の政治家、内務官僚。宮城・広島・兵庫県知事や東條内閣の内務大臣を務め、戦後も自由民主党参議院議員として活動した。 | ||
56 | 湯澤三千男 鹿沼市 | Wikipedia |
湯沢 三千男(ゆざわ みちお、明治21年(1888年)5月20日 - 昭和38年(1963年)2月21日)は、大正・昭和期の日本の政治家、内務官僚。宮城・広島・兵庫県知事や東條内閣の内務大臣を務め、戦後も自由民主党参議院議員として活動した。 | ||
57 | 六代上野松次郎 宇都宮市 | Wikipedia |
6代上野 松次郎(うえの まつじろう、1887年(明治20年)8月 - 1954年(昭和29年)10月5日[3])は、日本の商人(油屋、肥料商)[4]、政治家・貴族院議員、栃木県多額納税者[5]、実業家。宇都宮商工会議所会頭[4]。栃木県農工銀行、下野貯蓄銀行、下野中央銀行各頭取。下野製紙、下野印刷、旭土地、上野松次郎商店各代表取締役。前名・順一[6]。 | ||
58 | 小平重吉 下野市 | Wikipedia |
小平 重吉(こだいら じゅうきち、1886年9月10日 - 1960年4月3日)は、栃木県出身の日本の政治家。 | ||
明治大学出身 栃木県出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
59 | 松村光三 栃木市 | Wikipedia |
松村 光三(まつむら こうぞう、1882年(明治15年)12月24日 – 1962年(昭和37年)6月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→自由党)、商工参与官、大蔵政務次官、軍需政務次官。 | ||
60 | 松永和一郎 栃木市 | Wikipedia |
松永 和一郎(まつなが わいちろう、1873年(明治6年)6月10日 - 1953年(昭和28年))は、日本の政治家。栃木県宇都宮市長を務めた。 | ||
61 | 田代義徳 足利市 | Wikipedia |
田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日(元治元年7月26日) - 1938年(昭和13年)12月1日)は明治〜昭和期の医学博士、外科医、日本整形外科の命名者で基礎を築く。東京帝国大学教授、東京市会議員に当選し、東京府社会事業活動を通じて医事衛生問題に取り組む。栃木県出身。 | ||
62 | 石川甚作 栃木市 | Wikipedia |
石川 甚作(いしかわ じんさく、文久3年5月20日(1863年7月5日) - 大正8年(1919年)1月28日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 | ||
63 | 五代上野松次郎 宇都宮市 | Wikipedia |
5代上野 松次郎(うえの まつじろう、1860年3月31日(万延元年3月10日) - 1939年(昭和14年)11月27日[3])は、日本の商人(油屋、肥料商)[4]、政治家・衆議院議員(立憲政友会)[5]、栃木県多額納税者[6][7]、資産家[8]、実業家。宇都宮商工会議所初代会頭。宇都宮銀行、下野中央銀行各頭取。下野製紙、宇都宮瓦斯、上野松次郎商店各代表取締役。私立宇都宮幼稚園長[9]。前名・豊次郎[9]。旧姓・鵜月。族籍は栃木県平民[10][11]。 | ||
64 | 新井章吾 栃木市 | Wikipedia |
新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日(1856年3月28日)- 明治39年(1906年)10月16日)は、明治前期の政治家。衆議院議員として通算7期[6]。 | ||
65 | 植竹三右衛門 大田原市 | Wikipedia |
先代 植竹 三右衛門(うえたけ さんえもん、1854年3月13日(安政元年2月15日) - 1933年(昭和8年)7月6日)は、日本の政治家・貴族院議員[3][4][5]、実業家、資産家[6]、篤農家[7]、醤油醸造家。栃木県多額納税者[4][8][9]。栃木県農工銀行頭取[5][8][10]。東海銀行副頭取[8]。氏家銀行、宇都宮瓦斯、日本製麻、下野新聞各取締役[8]。東洋薬品監査役[8]。宇都宮商業会議所特別議員[3][4]。栃木県地主会顧問[10]。族籍は栃木県平民[4][8]。 | ||
66 | 岩崎万次郎 野木町 | Wikipedia |
岩崎 万次郎(いわさき まんじろう、1852年(嘉永5年)7月 - 1911年(明治44年)8月2日)は、日本の明治期の政治家。衆議院議員として当選2回。自由民権家として知られる。 |
宗教家・思想家・運動家
67 | 鯉沼九八郎 壬生町 | Wikipedia |
鯉沼 九八郎(こいぬま くはちろう、嘉永5年12月13日(1853年1月22日) - 大正13年(1924年)12月29日)は、栃木県の政治家で自由民権運動家。「隻腕の加波山将軍」の異名で知られる[3]。 |
俳人・歌人・詩人
68 | 植竹喜四郎 大田原市 | Wikipedia |
植竹 喜四郎(うえたけ きしろう、1884年(明治17年)1月 - 1963年(昭和38年)[要出典])は、日本の歌人(筆名・岸良雄)、実業家。下野鉄工、東野電力、植竹商業各取締役。 | ||
69 | 野口雨情 宇都宮市 | Wikipedia |
野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。 | ||
70 | 田波御白 小山市 | Wikipedia |
田波御白(たなみ みしろ、本名:庄蔵(しょうぞう)、明治18年(1885年)11月8日-大正2年(1913年)8月25日)は、栃木県小山市出身の歌人。初期の号は「水韻」。 |
その他の職業
71 | 下江秀太郎 鹿沼市 | Wikipedia |
下江 秀太郎(しもえ ひでたろう、1848年(嘉永元年)5月 - 1904年(明治37年)5月3日)は、日本の武士、剣術家。流派は北辰一刀流。称号は大日本武徳会精錬証。維新後の職業は警察官。諱は恒明(つねあき)。「鬼秀」、「日本一の突きの名人」と呼ばれた。 |