このサイトに登録されている有名人の数:70,856人
このサイトに登録されている「岐阜県出身で18年生まれ」の有名人の数:105人
スポンサーリンク
宝塚・女優・俳優・声優・ナレーター・歌舞伎・能楽・狂言
1 | 岩田祐吉 | Wikipedia |
岩田 祐吉(いわた ゆうきち、1887年3月23日 - 1980年1月18日)は、日本の映画俳優。 | ||
2 | 市川百十郎 各務原市 | Wikipedia |
市川 百十郎(いちかわ ひゃくじゅろう、1882年(明治15年)5月15日 - 1969年(昭和44年)2月21日)は、明治時代から昭和時代に活躍した歌舞伎役者、旅芸人。 |
歌手・シンガー
3 | 酒井雲 岐阜市 | Wikipedia |
酒井 雲(さかい くも、1898年12月6日 - 1973年11月10日)は浪曲師。本名:酒井玉之助。日本を代表する演歌歌手・村田英雄の師匠として知られる。 |
舞台・演劇・映画・ドラマ・脚本・プロデューサー・ディレクター
4 | 大洞元吾 | Wikipedia |
大洞 元吾(おおぼら げんご、1888年3月3日 - 1975年11月22日)は、日本の撮影技師、映画監督である。日本映画の創成期に、M・パテー商会で撮影技師になり、日活向島撮影所で監督に転向した。 | ||
5 | 所郁太郎 大野町 | Wikipedia |
所 郁太郎(ところ いくたろう、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 慶応元年3月12日(1865年4月7日))は、幕末の医者、志士。井上聞多(後の井上馨)遭難の際に、井上を治療した人物として知られる。 |
格闘技
6 | 加藤七左衛門 | Wikipedia |
加藤 七左衛門(かとう しちざえもん、1880年(明治13年)11月 - 1971年(昭和46年)7月)は、日本の剣道家。段位称号は範士九段。 | ||
7 | 坂井賢一 | Wikipedia |
坂井賢一(さかい けんいち 1878年(明治11年)-1964年(昭和39年))は岐阜県富加町出身の剣道家(範士)。 | ||
8 | 鏡岩源之助 笠松町 | Wikipedia |
鏡岩 源之助(かがみいわ げんのすけ、? - 1855年9月29日(安政2年8月19日)は、美濃国羽栗郡(現:岐阜県羽島郡笠松町)出身の大相撲力士。本名は加藤 助三郎(かとう すけさぶろう)。 | ||
9 | 白真弓肥太右エ門 | Wikipedia |
白真弓 肥太右エ門(しらまゆみ ひだえもん、文政12年(1829年) - 明治元年11月9日(1868年12月22日))は、飛騨国大野郡(現在の岐阜県大野郡白川村)出身の浦風部屋所属の元大相撲力士。最高位は西前頭筆頭。本名は東屋勇吉(後に奥右衛門)。体格は208cm、150kg。 | ||
10 | 鬼面山谷五郎 | Wikipedia |
鬼面山 谷五郎(きめんざん たにごろう、1826年(文政9年) - 1871年9月7日(明治4年7月23日))は、美濃国(現・岐阜県)出身の元大相撲力士。第13代横綱。本名は田中 新一(たなか しんいち)。 |
漫画家・イラスト・ゲーム
11 | 南部正太郎 | Wikipedia |
南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月23日 ‐ 1976年11月5日)は、日本の漫画家。昭和20年代の関西漫画界の第一人者で、代表作に焼け跡派の4コマ漫画「ヤネウラ3ちゃん」がある。生前は大阪読売新聞夕刊の「マンガアンデパンダン」選者、日本漫画家協会関西支部所属。 |
作家・小説家・エッセイ・文筆・翻訳家・編集者・評論家
12 | 中村久子 高山市 | Wikipedia |
中村 久子(なかむら ひさこ、1897年11月25日 - 1968年3月19日)は、明治から昭和期の興行芸人、作家。両手・両足の切断というハンデにも拘らず自立した生活を送った女性として知られる。 | ||
13 | 浅野祥雲 | Wikipedia |
浅野 祥雲(あさの しょううん、1891年 - 1978年)は、日本のコンクリート像作家。本名は、浅野高次郎。 | ||
14 | 江馬修 | Wikipedia |
江馬 修(えま しゅう、または えま なかし、1889年12月12日 - 1975年1月23日)は、日本の作家。本名の読みは「なかし」で、筆名は「しゅう」とすることが多かったが、一定しない。 | ||
15 | 木村小舟 | Wikipedia |
木村 小舟(きむら しょうしゅう、1881年9月12日 - 1954年4月20日)は、20世紀前半の少年雑誌編集者・童話作家である。 | ||
16 | 森田草平 | Wikipedia |
森田 草平(もりた そうへい、1881年(明治14年)3月19日 - 1949年(昭和24年)12月14日)は、作家・翻訳家。本名森田 米松。夏目漱石の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。 |
建築家・建築学者・技術者
17 | 堀口捨巳 本巣市 | Wikipedia |
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。ヨーロッパの新しい建築運動に心惹かれ、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。 | ||
東京帝国大学出身 岐阜県出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
18 | 堀口捨己 本巣市 | Wikipedia |
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。ヨーロッパの新しい建築運動に心惹かれ、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。 | ||
東京大学出身 岐阜県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
19 | 山田守 羽島市 | Wikipedia |
山田 守(やまだ まもる、1894年4月19日 - 1966年6月13日)は日本の建築家。逓信建築の先駆者的存在、モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインの作品を残した。 | ||
東京音楽大学出身 岐阜県出身の東京音楽大学の出身者 全国の東京音楽大学の出身者 | ||
20 | 井手薫 | Wikipedia |
井手 薫(いで かおる、1879年(明治12年)5月6日 - 1944年(昭和19年))は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。岐阜県出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の官庁や民間建築を多く手がけ、その設計理念と風格は台湾建築界に影響を与えた。 | ||
東京大学出身 岐阜県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
21 | 國枝博 | Wikipedia |
國枝 博(くにえだ ひろし、1879年6月20日 - 1943年8月6日)は、大阪を拠点に活躍した日本の建築家。朝鮮総督府に在任中、主任技師として朝鮮総督府庁舎の設計に携わった。 | ||
東京大学出身 岐阜県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
22 | 矢橋賢吉 | Wikipedia |
矢橋 賢吉(やばし けんきち、1869年10月24日(明治2年9月20日) - 1927年(昭和2年)5月24日)は日本の建築家、官僚。 | ||
東京大学出身 岐阜県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 |
経営者・実業家
23 | 岩崎瀧三 | Wikipedia |
岩崎 瀧三(いわさき たきぞう、1895年(明治28年) - 1965年(昭和40年))は、郡上八幡のサンプル王。岐阜県郡上郡八幡町生まれ。1932年(昭和7年)、大阪市北区に「食品模型岩崎製作所」を設立。当時出回り始めていた食品サンプルの事業化に初めて成功[2]した。第1号のサンプルはオムレツ。妻のつくったオムレツがそのモデルとなった[3]。1955年、故郷の役に立ちたいと郡上八幡に岐阜工場を建設[4]。1963年、岩崎模型製造株式会社に社名変更。2013年現在、いわさきグループの国内シェアは約70%[5]に達し、食品サンプルづくり体験も年間1万人以上が利用する[6]人気サービスに成長した。八幡町の生家は「食品サンプルの創始者 サンプル王 岩崎瀧三の生家」と看板が掲げられ観光スポットとなっている。 | ||
24 | 水野利八 大垣市 | Wikipedia |
水野 利八(みずの りはち 1884年(明治17年)5月15日 - 1970年(昭和45年)3月9日)は日本の実業家。ミズノ創業者。 | ||
25 | 山本五郎 | Wikipedia |
山本 五郎(やまもと ごろう、1880年2月12日 - 1941年4月12日)は岐阜県揖斐郡出身の実業家。写真機械店と写真館を経営。愛友写真倶楽部代表。 | ||
26 | 小寺源吾 | Wikipedia |
小寺 源吾(こでら げんご、1879年(明治12年)9月7日 - 1959年(昭和34年)6月15日)は日本の実業家。大日本紡績元社長。 | ||
慶應義塾大学出身 岐阜県出身の慶應義塾大学の出身者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
27 | 藍川清成 現岐阜市 | Wikipedia |
藍川 清成(あいかわ きよなり、1872年5月21日(明治5年4月15日) - 1948年(昭和23年)9月7日)は、明治末期から大正、昭和初期にかけて活動した日本の弁護士、政治家、実業家。 | ||
東京大学出身 岐阜県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
28 | 日下部久太郎 | Wikipedia |
日下部 久太郎(くさかべ きゅうたろう、1871年(明治4年) - 1953年(昭和28年))は日本の実業家。海運業で財を成す。 | ||
29 | 原富太郎 岐阜市 | Wikipedia |
原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年10月8日) - 昭和14年(1939年)8月16日)は、日本の実業家、美術品収集家、茶人。号は三溪。美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市)出身。 | ||
30 | 矢橋亮吉 大垣市 | Wikipedia |
矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年9月6日 - 1946年9月30日)は、日本の実業家、銀行経営者、慈善活動家。国会議事堂などの日本の近代建築史に残る建造物・高層ビル・ホテル・豪華列車の床材・海外の航空会社のラウンジから自動運転技術・EV・新幹線などまで関わってきた、矢橋グループの一翼を担う矢橋大理石の創業者。 | ||
31 | 立川勇次郎 大垣市 | Wikipedia |
立川勇次郎(たちかわ ゆうじろう、文久2年(1862年) - 大正14年(1925年)12月14日)は、明治・大正期の実業家。主に電気業界に関わる。岐阜県大垣市出身。京浜急行電鉄の創業者。 | ||
32 | 田代重右衛門 | Wikipedia |
田代重右衛門(たしろ じゅうえもん、1854年(嘉永7年)1月2日 - 1932年(昭和7年)12月14日)は、日本の実業家。 | ||
33 | 山田才吉 | Wikipedia |
山田 才吉(やまだ さいきち、1852年8月19日 - 1937年1月31日)は美濃国出身の実業家。 | ||
34 | 早矢仕有的 山県市 | Wikipedia |
早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日(1837年9月8日) - 明治34年(1901年)2月18日)は、岩村藩藩医で明治期の日本の官吏、実業家、教育者。丸善、横浜正金銀行、横浜市立大学医学部の創業者として知られる。 | ||
明治学院大学出身 岐阜県出身の明治学院大学の出身者 全国の明治学院大学の出身者 |
医師・看護師
35 | 小島三郎 各務原市 | Wikipedia |
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年(明治21年)8月21日 - 1962年(昭和37年)9月9日)は、日本の医師。医学博士。 |
軍人
36 | 山田清一 | Wikipedia |
山田 清一(やまだ せいいち、1893年10月2日 - 1945年8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
37 | 市岡寿 | Wikipedia |
市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 1963年2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
38 | 宮崎繁三郎 岐阜市 | Wikipedia |
宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年)1月4日 - 昭和40年(1965年)8月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
39 | 前田正実 | Wikipedia |
前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 1953年7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
40 | 田結穣 大垣市 | Wikipedia |
田結 穣(たゆい みのる、1890年(明治23年)1月20日 - 1977年(昭和52年)6月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
41 | 寺倉正三 | Wikipedia |
寺倉 正三(てらくら しょうぞう、1889年(明治22年)10月14日 - 1964年(昭和39年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
42 | 樋口季一郎 大垣市 | Wikipedia |
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年8月20日 - 1970年10月11日)は、日本の陸軍軍人。兵庫県淡路島出身。最終階級は陸軍中将。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任し、最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 | ||
43 | 坂田義朗 | Wikipedia |
坂田 義朗(さかた よしろう、1888年7月26日 - 1933年7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 | ||
44 | 大島浩 恵那市 | Wikipedia |
大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の昭和期の陸軍軍人である。最終階級は陸軍中将。 | ||
45 | 中島完一 下呂市 | Wikipedia |
中島 完一(なかしま かんいち、1882年(明治15年)2月3日 - 1943年(昭和18年)2月19日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
46 | 安東昌喬 | Wikipedia |
安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年5月28日 - 1956年4月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
47 | 渡辺寿 | Wikipedia |
渡邊 壽(わたなべ ひさし、1874年11月29日 - 1962年1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
48 | 安田伊左衛門 | Wikipedia |
安田 伊左衛門(やすだ いさえもん、安田 伊左衞門、1872年8月31日(明治5年7月28日) - 1958年(昭和33年)5月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての階級は陸軍騎兵大尉。衆議院議員ののち貴族院議員。他に日本競馬会理事長、日本中央競馬会理事長を務める。栄典は正五位勲三等旭日中綬章。 | ||
東京大学出身 岐阜県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
49 | 大島健一 恵那市 | Wikipedia |
大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日(安政5年5月9日) - 1947年(昭和22年)3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。 | ||
50 | 福田馬之助 | Wikipedia |
福田 馬之助(ふくだ うまのすけ、1856年(安政3年)10月24日 - 1936年(昭和11年)4月12日)は、日本の船舶工学者、海軍軍人。位階勲等功級は、海軍技術中将・従三位・功四級・勲一等旭日大綬章・勲二等瑞宝章。工学博士。 | ||
51 | 塚本勝嘉 | Wikipedia |
塚本 勝嘉(つかもと かつよし、1847年12月27日(弘化4年11月20日) - 1912年1月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。男爵。幼名・琢磨。 |
学者・教授・准教授
52 | 吉益脩夫 大垣市 | Wikipedia |
吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年7月11日 - 1974年7月14日)は、岐阜県大垣市出身の医学者であり精神科医である。犯罪学や精神鑑定など幅広く活用されている犯罪生活曲線の開発者である。 | ||
岡山大学出身 岐阜県出身の岡山大学の出身者 全国の岡山大学の出身者 | ||
53 | 椙山正弌 関市 | Wikipedia |
椙山 正弌(すぎやま まさかず、明治12年(1879年)6月26日 - 昭和39年(1964年)2月18日)は、岐阜県生まれの尾張藩士族であり、愛知県名古屋市の教育者。椙山女学園初代学園長・理事長。藍綬褒章の受章2回。 | ||
東京家政大学出身 岐阜県出身の東京家政大学の出身者 全国の東京家政大学の出身者 | ||
54 | 垣内松三 高山市 | Wikipedia |
垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1952年8月25日)は、日本の国語教育学者、国文学者。 | ||
東京帝国大学出身 岐阜県出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
55 | 牧野英一 高山市 | Wikipedia |
牧野 英一(まきの えいいち、1878年3月20日 - 1970年4月18日)は、岐阜県高山市出身の法学者。専門は刑事法。元東京帝国大学名誉教授、元東京商科大学(一橋大学の前身)名誉講師。従二位勲一等瑞宝章。 | ||
一橋大学出身 岐阜県出身の一橋大学の出身者 全国の一橋大学の出身者 | ||
56 | 椙山今子 | Wikipedia |
椙山 今子(すぎやま いまこ、1877年 - 1965年4月13日)は、岐阜県生まれの名古屋市の教育者。椙山女学園を夫である椙山正弌と共に設立した。旧姓・中村、本名・いま。 | ||
57 | 今西龍 池田町 | Wikipedia |
今西 龍(いまにし りゅう、1875年8月15日 - 1932年5月20日)は、日本の朝鮮史家、京都帝国大学教授。 | ||
東京帝国大学出身 岐阜県出身の東京帝国大学の出身者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
58 | 高木貞治 本巣市 | Wikipedia |
高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年(明治8年)4月21日 - 1960年(昭和35年)2月28日)は、日本の数学者。東京帝国大学教授。第1回フィールズ賞選考委員。文化勲章受章。 | ||
東京大学出身 岐阜県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 | ||
59 | 可児徳 中津川市 | Wikipedia |
可児 徳(可兒 德、かに いさお、1874年〔明治7年〕11月7日[3] - 1966年〔昭和41年〕9月8日[5])は、日本の体育指導者・教育者。東京高等師範学校(現・筑波大学)の教師として校長の嘉納治五郎とともにスポーツの普及に尽力した。また、坪井玄道とともにドッジボールを日本に初めて伝えた人物である[8][9][10]。 | ||
60 | 津田左右吉 美濃加茂市 | Wikipedia |
津田 左右吉(つだ そうきち、1873年(明治6年)10月3日 - 1961年(昭和36年)12月4日)は、20世紀前半の歴史学者である。『日本書紀』『古事記』を史料批判の観点から研究[注 1]したことで知られる。栄典は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章。 | ||
61 | 三好学 | Wikipedia |
三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月5日) - 1939年(昭和14年)5月11日)は、明治・大正・昭和時代の植物学者、理学博士である。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人である。特に桜と菖蒲の研究に関しての第一人者として知られ、殊に桜博士とも呼ばれた。また、天然記念物の概念を日本に広めた先駆者であり、希少植物の保存活動に尽力した。 |
研究者・研究家・発明家
62 | 長島乙吉 中津川市 | Wikipedia |
長島 乙吉(ながしま おときち、1890年(明治23年)9月2日 - 1969年(昭和44年)12月4日)は、日本のアマチュア鉱物研究者。専門的な教育は受けなかったが、神保小虎、和田維四郎、巨智部忠承(こちべただつね)ら先覚者の愛顧を受け、また、全国各地を踏査して鉱物を採集して知識を身に付けた。採集した鉱物を研究者に提供したり、産出地に案内することにより、学界に貢献した。アマチュア鉱物研究家の草分けで「鉱物趣味の父」「アマチュア鉱物学の父」と称されている。 | ||
63 | 岡田只治 関市 | Wikipedia |
岡田 只治(おかだ ただじ、1850年 - 1914年)は、日本の実業家、発明家。 |
画家・写真家・書道家・彫刻家・陶芸家・漆芸家・工芸家
64 | 加賀孝一郎 | Wikipedia |
加賀 孝一郎(かが こういちろう、1899年(明治32年) - 1988年(昭和63年)2月3日)は、日本の洋画家。 | ||
65 | 加藤顕清 | Wikipedia |
加藤 顕清(かとう けんせい、1894年12月19日 - 1966年11月11日)は北海道旭川市の彫刻家。岐阜県で生まれ、上川中学(現在の旭川東高等学校)を卒業し、その後上京した。 | ||
66 | 荒川豊蔵 多治見市 | Wikipedia |
荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 - 1985年8月11日)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立した。斗出庵、無田陶人と号す。 | ||
67 | 加藤十右衛門 | Wikipedia |
加藤 十右衛門(かとう じゅうえもん、1894年(明治27年)12月21日 - 1974年(昭和49年)10月15日)は日本の陶芸家。岐阜県土岐郡笠原町(現・多治見市)生まれ。八坂窯開窯。 | ||
68 | 加藤幸兵衛 | Wikipedia |
加藤 幸兵衛(かとう こうべえ、1893年(明治26年)12月27日 - 1982年(昭和57年)4月11日)は日本の陶芸家。本名は加藤福寿。 | ||
69 | 川崎小虎 高山市 | Wikipedia |
川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月8日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、日本の画家。岐阜県生まれ。 | ||
70 | 野原櫻州 | Wikipedia |
野原 櫻州(のはら おうしゅう、1886年(明治19年) - 1933年(昭和8年)2月28日)は明治から昭和にかけて活躍した日本画家である。野原桜州とも表記される。 | ||
71 | 前田青邨 中津川市 | Wikipedia |
前田 青邨(まえだ せいそん、1885年1月27日 - 1977年10月27日)は、岐阜県中津川市出身の日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友。 | ||
72 | 大野鈍阿 | Wikipedia |
大野 鈍阿(おおの どんな、1885年(明治18年)- 1951年(昭和26年))は岐阜県出身の陶芸家である。本名は大野 準一(おおの じゅんいち)。 | ||
73 | 熊谷守一 中津川市 | Wikipedia |
熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年(明治13年)4月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。 | ||
東京芸術大学出身 岐阜県出身の東京芸術大学の出身者 全国の東京芸術大学の出身者 | ||
74 | 河合米田 富加町 | Wikipedia |
河合 米田(かわい べいでん、1879年(明治12年) - 1950年(昭和25年))は、日本の画家、講師。岐阜県出身。 | ||
75 | 北蓮蔵 | Wikipedia |
北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月 - 昭和24年(1949年)12月21日)は、明治から昭和にかけて活動した洋画家。 | ||
76 | 高屋肖哲 大垣市 | Wikipedia |
高屋 肖哲(たかや しょうてつ、慶応2年11月2日(1866年12月8日) ‐ 昭和20年(1945年)没日不明)は、日本の明治から昭和時代の日本画家。狩野芳崖の弟子で、岡倉秋水、岡不崩、本多天城らと共に芳崖四天王と呼ばれたが、ほとんど画壇との関わりを持たず、自ら「仏画師」と称して市井の画家として生きた。 | ||
77 | 大橋翠石 大垣市 | Wikipedia |
大橋 翠石(おおはし すいせき、1865年(慶応元年) - 1945年(昭和20年)8月31日)は岐阜県大垣市出身の明治から昭和にかけて活躍した日本画家である。世に「虎の翠石」と言われて名高く、その描くところの虎画は本物の虎がまるで生きているかのような躍動感がある。 | ||
78 | 大橋万峰 大垣市 | Wikipedia |
大橋 万峰(おおはし まんぽう、1860年(安政7年) - 1943年(昭和18年)は、美濃国出身の日本画家である。本名は鎌三郎。大橋翠石の兄。 | ||
79 | 喜田華堂 | Wikipedia |
喜田 華堂(きだ かどう、1802年(享和2年) - 1879年(明治12年)2月7日)は、江戸時代後期から明治時代初期の日本画家。名古屋における岸派の祖。名を景静。字は伯寿。号に竹石居、半舟翁など。美濃国不破郡今須(現在の岐阜県関ケ原町)出身。 |
政治家・議員・首長
80 | 渡辺栄一 美濃加茂市 | Wikipedia |
渡辺 栄一(わたなべ えいいち、1918年10月11日 - 1997年6月16日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(10期)。 | ||
名古屋大学出身 岐阜県出身の名古屋大学の出身者 全国の名古屋大学の出身者 | ||
81 | 間宮成吉 美濃加茂市 | Wikipedia |
間宮 成吉(まみや せいきち、1898年(明治31年)2月 - 1981年(昭和56年)6月16日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、岐阜県加茂郡田原村長。旧姓・日比野。 | ||
82 | 平野力三 郡上市 | Wikipedia |
平野 力三(ひらの りきぞう、1898年11月5日 - 1981年12月17日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員、片山内閣の農林大臣。夫人の平野成子は日本社会党参議院議員。三女の平野照子は、民社党・日本ナショナリズム同盟で活動した。自由民主党衆議院議員から岐阜県知事を務めた平野三郎は甥にあたる。 | ||
早稲田大学出身 岐阜県出身の早稲田大学の出身者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
83 | 村上肇 養老町 | Wikipedia |
村上肇(むらかみはじめ、1898年(明治31年)1月15日 - 1978年(昭和53年)8月21日)は元多芸村長、化学者である。岐阜県養老郡養老町橋爪出身。 | ||
84 | 中島武市 本巣市 | Wikipedia |
中島 武市(なかじま ぶいち、1897年1月30日 - 1978年7月16日)は、日本の実業家・政治家。岐阜県本巣郡土貴野村(現在:本巣市)出身。岐阜市立岐阜商業学校(現在の岐阜県立岐阜商業高等学校の前身)卒業。シンガーソングライターの中島みゆきは孫(武市の長男の第一子)。 | ||
85 | 加藤於兎丸 下呂市 | Wikipedia |
加藤 於兎丸(かとう おとまる、1896年(明治29年)7月19日 - 1983年(昭和58年)8月11日)は、日本の内務・厚生官僚、実業家。官選県知事。 | ||
86 | 大野伴睦 山県市 | Wikipedia |
大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦(おおの ともちか)、1890年(明治23年)9月20日 - 1964年(昭和39年)5月29日)は日本の政治家。 | ||
明治大学出身 岐阜県出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
87 | 塚本三 瑞浪市 | Wikipedia |
塚本 三(つかもと ぞう、1889年4月21日 - 1952年8月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。公選初の名古屋市長(2期)。戦前は衆議院議員(1期)、名古屋市会議員などを務めた。旧姓は井箟。 | ||
88 | 牧野良三 高山市 | Wikipedia |
牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月26日 - 1961年(昭和36年)6月1日)は、日本の政治家。 | ||
山口大学出身 岐阜県出身の山口大学の出身者 全国の山口大学の出身者 | ||
89 | 古屋慶隆 恵那市] | Wikipedia |
古屋 慶隆(ふるや よしたか、1879年12月18日 - 1945年3月10日)は、戦前日本の政治家。岐阜県恵那市出身。古屋家は典型的な地方の名望家であり、慶隆の父・善造も衆議院議員を1期務めた[2] 。 | ||
明治大学出身 岐阜県出身の明治大学の出身者 全国の明治大学の出身者 | ||
90 | 武藤嘉門 関市 | Wikipedia |
武藤 嘉門(むとう かもん、1870年10月27日(明治3年10月3日) - 1963年8月11日)は日本の政治家・実業家。元岐阜県知事・衆議院議員、岐阜県名誉県民。 | ||
中央大学出身 岐阜県出身の中央大学の出身者 全国の中央大学の出身者 | ||
91 | 板津宇平治 富加町 | Wikipedia |
板津 宇平治(いたつ うへいじ、1864年(元治元年)6月28日 - 1928年(昭和3年)6月19日)は、岐阜県加茂郡富加町出身の政治家。 | ||
92 | 中村敬一 富加町 | Wikipedia |
中村 敬一(なかむら けいいち、1862年 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、岐阜県の政治家。加治田村長。 | ||
93 | 神田孝平 垂井町 | Wikipedia |
神田 孝平(かんだ たかひら、1830年10月31日(文政13年9月15日) - 1898年(明治31年)7月5日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者、政治家。男爵。号は淡崖。元は諱を孟恪、通称を孝平(こうへい)と名乗っていた。 |
評論家
94 | 坪内逍遥 美濃加茂市 | Wikipedia |
坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に敷くものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。 | ||
東京大学出身 岐阜県出身の東京大学の出身者 全国の東京大学の出身者 |
宗教家・思想家・運動家
95 | 南条文雄 大垣市 | Wikipedia |
南条 文雄(なんじょう ぶんゆう、嘉永2年5月12日(1849年7月1日) - 昭和2年(1927年)11月9日)は、日本の明治・大正期に活躍した仏教学者・宗教家。旧字体で南條文雄とも表記される。字は碩果、松坡。 | ||
96 | 愨大機 富加町 | Wikipedia |
愨大機(かくたいき 1829年(文政12年)8月 - 1891年(明治24年)1月)は大字高畑の曹洞宗大徹山万久寺の15世住職。名古屋出身。諱は覚道。字は大機。姓は佐藤。 |
俳人・歌人・詩人・歌人
97 | 森有一 | Wikipedia |
森 有一(もり ゆういち、1898年4月13日 - 1984年10月30日)は、岐阜県出身の日本画家・俳人。新しき村会員。 | ||
98 | 瀧井孝作 | Wikipedia |
瀧井 孝作(たきい こうさく、1894年(明治27年)4月4日 - 1984年(昭和59年)11月21日)は、日本の小説家、俳人。俳句を河東碧梧桐に師事し、小説を芥川龍之介、志賀直哉に兄事した。文化功労者。 | ||
99 | 塩谷鵜平 岐阜市 | Wikipedia |
塩谷 鵜平(えんや うへい、1877年(明治10年)5月30日 - 1940年(昭和15年)12月8日)は、岐阜県稲葉郡鏡島村(現在の岐阜市)出身の日本の俳人。本名は熊蔵、のちに宇平。別号に芋坪舎、華園など。農業。 | ||
100 | 島崎藤村 中津川市 | Wikipedia |
島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日)- 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本の詩人、小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)生まれ。 | ||
明治学院大学出身 岐阜県出身の明治学院大学の出身者 全国の明治学院大学の出身者 | ||
101 | 神山鳳陽 | Wikipedia |
神山鳳陽(ごうやま ほうよう、文政8年(1824年) - 明治22年(1889年))は、明治時代に活躍した書家・漢詩人である。 |
その他の職業
102 | 野村芳兵衛 関市 | Wikipedia |
野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1986年11月4日)は、日本の教育者。岐阜県洞戸村(現在の関市洞戸地区)の農家に長男として生まれる。家は浄土真宗で特に親鸞に信仰しており、精神形成に大きな影響を残した。真宗の活動家梅原真隆(しんりゅう)に傾倒し、その言葉「純に生きる」を生涯を通じてのモットーとした。 | ||
103 | 臼井甕男 山県市 | Wikipedia |
臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)は、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者である。 | ||
104 | 福田太郎八 美濃加茂市 | Wikipedia |
福田 太郎八(ふくた たろはち、1833年(天保4年)3月 - 1878年(明治11年)9月16日)は、江戸時代後期の地方人士(名望家)。幸周(ゆちきか)の諱もあるが、一般には太郎八の呼び名で知られる。家紋は四つ目菱。美濃国(岐阜県)出身。 | ||
105 | 大島義保 富加町 | Wikipedia |
大島 義保(おおしま よしやす、寛永18年(1641年) - 延宝元年6月28日(1673年8月10日))は江戸時代の寄合旗本。通称は左兵衛。川辺大島氏2代大島義唯の子。母は朽木宣綱の娘。兄に義近。妻は天方倶通の娘、子に大島義浮。 |